野沢尚 – 破線のマリス

あるテレビ局のニュース番組の特集コーナーの映像を編集する凄腕の主人公遠藤瑤子。彼女がつくりだす映像は視聴者に問題を提起し、想像力をかきたてさせ、テーマとなる事件に彼女なりの考えを訴える。いろいろ問題は起こったとしても、あまりにも圧倒的な彼女の映像の力は、局内でもなかなか強く責めうるものではなかった。

しかしある事件にまつわる一本のビデオテープが持ち込まれたことから、彼女は追い詰められていく・・・・

現在いろいろ報道の偏りや情報統制、倫理などが問題になっているが、メディアの力は絶大。短い時間であっても繰り返せばあるイメージを視聴者にあたえることができる。真に客観的、平等、虚構なき報道ならば大丈夫だが、いろいろな圧力、思惑により、メディアはまっすぐであるとは到底いえないとおもう。しょうもないバラエティーならいざ知らず、ニュースやそれに並ぶ報道番組ではかなりキケンな兆候。

解説で郷原さんも引用しているが

「テレビジョンは現実そのもので、直接的で(中略)こう考えろと命令してくる。正しいことであるはずだ。そう思うと、正しいように思われてくる。あまりにもすばやく、あまりにも強引に結論を押し付けてくるので、誰もがそれに抗議している余裕はない。ばかばかしい、と言うのがせいぜいで」

なるほど、その通りかもしれない。だから正々堂々とウソ(タイトルでいうところのマリス=虚構)をつかれてしまうと、メディアの前の人間はそれがどうであるのか、考えることができない。それでも、最近はネットのような別メディアによって、違う角度からテレビメディアをけん制する動きもでてきたが、思っているほど大きな力(まんべんない層に届いていると思えない)にはなっていないようだし、さらに最近のテレビはウソをつくかわりに「わざと報道しない」という方法をよくとっているような気がする。

でも当たり前か。テレビや新聞もそうだけれど、ありとあらゆる情報が書かれていると勘違いしがちなネットでさえ、”書きたい人がある意思をもって書いたこと”のみ存在しているに過ぎないということ。

講談社文庫 2000

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