東北ぶらり旅:その3 津波被害について思う

(つづきです、長文駄文。前のはこちら

その1、その2とただ単に旅の記録を記しましたが、書きたかったのはここからです。ここからはかなり僕の偏見というか僕の視点から感じたことになるので、もしかするとあまり正確でなかったり不適当な表現があるかもしれませんが、そこは容赦ください。あくまで個人の意見です。

見たり聞いたりして感じたことをそのまま書きます。うまくまとまるかは分からないですが。

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今回の旅はへんな表現になりますが、とにかく震災を実感しに行くということが目的でした。少なくも神戸の震災を経験した人間(だけではないです。他にも大きな地震がありました)には地震の恐さは理解できることです。が、津波となると全く想像がつかないです。3年前の3/11にテレビの画面に映し出されていた状況、すなわち、木の葉のように翻弄される大きな船舶だとか、壊れてゆく大きな構造物、家が家をつぶし車が団子のように固まって流れて行く様子、田畑を生き物のように這って行く水流、神戸の震災を思い出させるような大きな火事、などなど、すごいとしか言いようのないそれらの映像は、その内容は理解できるけれど、目の前でみたらどんな感じがするのか、またはもしも自分の身に起ったことだったらどう感じるのか、なんてことは画面を通しては到底わからないものです。

そしてもう3年経ったというのもあるし、とくに被災地から遠い関西にはごくごく限られた情報しか入ってきません。またメディアを通して伝えられる情報も大きなトピックは伝わってきても、細々としたことは打ち捨てられているはずで、一体全体がどうなっているのかは知りようがありません。特に取り上げられたような南三陸とか陸前高田、大船渡なんていう地名は聞いたことあっても、それらがどんな場所で、どれくらいの大きさで、どんな位置にあって、なんてことは知りもしません。地図上で位置を知ったとしても、東北の地理に疎い西の人間にはどれくらい離れた場所なのかもわからない、という、分からないことづくめです。

今回車で行ったのもその広さが分かるかなーという安易な考えからでした。その1、その2で書いたように結局岩手の宮古市から福島の浪江町までの海岸沿いを走ったことになるのですが、だいたいの距離は340キロぐらいです。340キロというと大阪から広島ぐらいです。もしくは東京―名古屋間ぐらいです。僕が見た限りこの340キロの沿岸の海岸はすべて津波で流され更地になっていました。海に近い場所だけでなく、広いところなら海から2〜3キロなんて普通、大きな川沿いだと10キロ以上奥まで、小さな入り江はほとんど全部、です。僕は想像できないです、大阪から広島まで沿岸がずーーーっと更地になってるというような状態は。でも東北はそんな状態です。瓦礫が片付いただけ。そして上記したような被害の大きかった南三陸とか陸前高田という場所以外にも、岩手や宮城の北半分のリアス式海岸になっている所では、へこんでいるところが入り江になっていて小さな集落がある、という場所が無数にあります。それらがことごとく同じように何もない状態になっているのです。そんな場所も南三陸も同じように被災しているということは想像できたかもしれないですが、実際は知らなかったです。大きく報じられた場所だけでなく、同じようなことが無数に、しかも広範囲にわたって起きたんだ、ということを遠い場所にいる人間も知らなければならないと思いました。

今回走ったところ
今回走ったところ

大阪ー広島
大阪ー広島

実際走っていて、リアス式海岸のところ(岩手宮古〜宮城女川あたり)は入り江になるたびに更地が広がり、丘の部分には復旧用の資材があったり現場の基地があったり、残った集落があったり、というのの繰り返しで、それらを見続けていると「ああ、またか」「あ、ここもか」「ここも」「・・・」と、どこを走ってるのか分からなくなりそうなくらい感覚が麻痺していきました。そして仙台から南のゆるやかな海岸線の部分(仙台あたり〜浪江町)は、海岸から広いところでは5キロ以上、狭いところでも1キロぐらいの幅で延々と枯れた立ち木と草ぼうぼうの更地が続いてる状態でした。もともとは田畑だったと思うのですが、この広大な土地(というか平地のほとんど全部)が塩害になっているはずで、農地に回復させるためにはある程度掘り起こして塩が入った土をどけ、津波対策のために土地の高さをある程度かさ上げするためにまた土を盛ってやって、そこからようやく田畑を作り直さねばならないんじゃないかと思うと、もう呆然としてしまいました。もし自分がやると思うと途方に暮れてしまいます。(それでも現場の人たちは黙々と作業されてます)

そして(これはちょっと文句?になるかも、だけど)その仙台以南の海岸線は津波対策のための大きな防波堤が作られて行ってるのですが、仕方ないことなんだと思いますが、もう、まるで色気がないというか、味気がないというか、(農地が回復した後だったとして)もう今後は緑ゆれる田畑の向こうに海は見えないのです。遠くに海の青い色が見えて、草木は萌え、風鈴が揺れる軒下でスイカ食べる夏、みたいな風景はなくなるようなのです(想像ですが)。でも、仕方ないこと、なのですかね。。。

延々と続く建設中の防波堤
延々と続く建設中の防波堤

本当に津波が及ぼした被災範囲は広範囲すぎるなと思いました。しかも津波の被害がでたのは僕が走った部分の倍ぐらい(青森のおいらせ町から茨城の大洗町ぐらい)あります。実際に走って目にしてないところは想像ですが、どこもきっと似たような状態でしょう。そして復興/復旧作業はまだまだ、ほんとにまだまだ、のようです(いろいろ決まり事的なことがあるのだと思いますが)。新しく家が建ってる場所はまだわずかで、宅地も田畑もほとんどそのままです。何よりもまず道路、そして大きな産業については優先して復旧していってるようですが、個人的なものはまだまだで、一体いつになるのかというのもわからないようです。

現時点でも27万人を超える方々が避難生活を送っているそうですが、H27年度を目処に震災復興住宅(というような名前だったか)への移住が計画されているそうです。が、それもまだまだどうなるかわからないそうで、ある方に聞いたのですがが津波で家を流され仮設で暮らしている人(結構高齢だそう)が「仮設で死ぬのは嫌だ。せめて復興住宅まで頑張りたい」と言っているそうです。ぼくは幸いにも仮設暮らしは経験しませんでしたが、建ち並ぶ沢山の仮設をみて、しかも東北の冬は寒いですから、はやくその計画が進んだらいいのになと思いました。

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走り回るだけではなく、印象的な風景に出会ったときは足を止めてじっくり眺め、写真を撮ったりしていたのですが、どう頑張ってもそこで見たものを写真などに写し取ることができませんでした。僕は別にカメラマンではないので上手く写せないのは当然なのですが、単にその場所の広さや雰囲気だけでもいいから他の人に伝えるための写真でいいのに、それすら撮れなかったです。あまりにも対象が広大で圧倒的すぎて。

陸前高田
陸前高田

陸前高田の諏訪神社の階段から撮った写真を繋いでみましたが、ぜんぜん分からないですね。ここで左右2キロ弱、奥行き2キロ弱あります。全部更地になっています。実際に見ていると果てしなく広い土地のように見えました。そしてこの目線の高さ近くまで水面が来たのです。この見えている景色が全部海中に没した、というのは想像できる範囲を超えてしまいませんか?

次は気仙沼の本吉地区です(海際にぽつんと建物が残っていた場所)。車を中心に180度ぐらいを撮ってみました。この場所で3キロ四方ぐらいです。

気仙沼 本吉地区1
気仙沼 本吉地区1
気仙沼 本吉地区2
気仙沼 本吉地区2
気仙沼 本吉地区3
気仙沼 本吉地区3

漠然と広いことは伝わるかもしれないですが、あの荒涼とした感じは全然でないです。

もうひとつ、南相馬の浪江町に近いあたりの小高区です。R6から撮影しているのですが、ここで左右は3キロぐらい、奥に見えるこんもりしたところ(貴布根神社がある)までは2キロほどです。ここは全部畑だったようですが、多分津波のときそのままという感じです。

南相馬 小高区
南相馬 小高区

ここもその津波の後にそのまま打ち捨てられた感がものすごかったのですが、それは写しとることができないような類いのものでした。

まぁ、カメラの性能とかもちろん僕の腕とかもあるのですが、やはりこれらの場所で感じた感覚はその場所でしか感じられないような種類の感覚でした。写真は意味は伝えられるけれど、感じたことは、この雰囲気というか空気感というか(もしかすると阪神大震災の時もそうでしたが、あの空気のなかに混じっている通奏音のようなノイズの音)が大きく影響しているのかもしれません。がらーんとしていて、かつ、非常時であるという感じ。これはやはり現地にいかないと感じられないことだと思います。

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少し話が横に逸れますが、まだまだ瓦礫を片付けるとかいうような肉体的なボランディアも必要だと思いますし、物資的/金銭的な支援ももっと必要だと思います。が、今後もっと大事になるのは心を通わせることなんじゃないかと思います(当たり前と言われそうですが)。「絆」などという字を旗印にして大きなムーブメントを作り出したり、イベントを組んだりするようなこともとても大事ですが、たまにある大きな動きより、今もっと必要なのは小さくていいから常に存在して持続するようなことなんじゃないかと思います。もちろん被災地の人に直接会ったり、例えば仮設住宅を訪問したりするのが一番いいかと思いますが、もっと簡単なことが「忘れないでいること」、つまりは「みんなが思っている/心を注いでいるということを、現地の人たちが感じていられる状態を続けること」なんじゃないかと思います。どんな災害でもそうだと思いますが。阪神大震災を経験した方々は思い出して欲しいのですが、1月の地震のあと、例えば僕の住んでいたところだったら電気はようやくきたけれど水もガスもまだまだという3月に地下鉄サリン事件があって、世間の注目が(とくにメディアが)そちらに一斉に向いてしまったとき、自分たちのことが忘れられたような気がして寂しく感じませんでしたか?僕はそうでした。別に大きく注目され続けたいというわけではないけれど、忘れられたのかなと感じるとつらいです。復興が完了したりしていれば別ですが、まだまだ先も分からない時期だとそう思ってしまうものなんじゃないでしょうか。

阪神大震災のときも3年という時点はまだまだという感じでしたが、今回訪れた東北の場合は、まだ全然、という感じです。ぐるっと巡ってみて「なにか目処ってついてるの?」と思うぐらい復旧というか復興は進んでいないように見えました。ただこれは物理的にあまりにも対象が広大だからというのと、圧倒的に手が足りないからのようです(津波体験館で話してくれた館員さんもそう言ってました)。行くまでは「物資/人員をどっさり投資して、ちゃっちゃとやればいいのに。きっとどっかの頭悪い組織が利権かなんかでぐずぐずしてたりするか、どっかケチってるかサボっているに違いない」とか思っていましたが、現場はすごく頑張ってるなと思いました。しかし対象があまりにも巨大すぎるようなのです。これは行ってみないとたぶん感じられなかったことです。

とにかく現地にいってみるこが一番だと思います。別にボランティアじゃなくて、単に旅するだけでもいいし、僕のように興味本位で見て回るのでもいいと思います。いい観光地もあるし(松島楽しかった)、美味しいものもたくさんあります。積極的にその土地の人と交わったりしなくても、飲み食いしてみたり、うろうろするだけでも何かの足しになると思いますし、おのずとそこで現地の人と話す機会もできる(結構話し好きの人多そうな感触しました)でしょうし。会計のときとかに「美味しかったですー。神戸から来たんですよー」と言うだけで相手の方も「そうなんですか、どうもです」なんて感じで話に花が咲くこともありましたし、なかったとしても「あ、他所からきてるのだな」と伝わるでしょうし。

で、僕のように感化されて、行ってみたり、こうやって書いたり、周りの人に伝えたりする人も増えれば、思い出したり、思い続ける人も(そのチャンスも)増えて、「忘れないでいるよ」という見えないかもしれないけれど大きな力が伝わって、被災地の人も少しは安らいだり元気がでたり頑張ろうと思ってくれるのではないかなと思います。

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今更ながらようやく実感しましたが、僕が今回この旅をするきっかけとなった、ある人に言われた「とにかく行ってみたら分かるから」という言葉は、ほんとに全くその通りでした。 津波という経験したことないことがらとその被害の大きさは行かないとわかりません。また行けばきっと少しでも被災地の役に立てると思います。とにかくチャンスがあればぜひ訪れて、そして見聞きしたことを周りの人に伝えることが大事だと思います。僕もチャンスあれば(もしくはまた作って)行きたいと思っています。

やはりとっちらかした、まとまりのない文章になってしまいました、すいません。。。

つづく

 

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