浅田次郎 – プリズンホテル【4】春

プリズンホテル、最終巻。季節毎に訪れることのできたこの物語もこれで最後。任侠もので売れっ子になった作家・孝之介。しかし彼はそれより恋愛ものを書きたがっていた。その彼の書いた渾身の恋愛小説「哀愁のカルボナーラ」が文壇最高の権威「日本文芸大賞」にノミネートされる。根っからのひねくれものの孝之介は記者に追いかけられるのを嫌がって、奥湯元あじさいホテル –  通称プリズンホテルへと逃げ込みそこで選考結果を待つ。それにくっついていく編集者や関係者の団体で賑やかな様相を醸すが、実は孝之介はノミネートのニュースが流れたとたんに姿を隠してしまった継母の富江が気になって仕方ない。

それとは別に同じ頃、ある手違いから52年の服役を終えてシャバにでてきた一人の老人がいた。彼は孝之介の叔父でありプリズンホテルのオーナーであり、関東桜会の顔役である正真正銘のヤクザである仲蔵のオジキにあたる博徒だった。行く宛のない彼は途中で偶然出会った月末の支払いに困る工場主を連れ、その足は昔教えられた宿、プリズンホテルへと向かう。そしてそこにまたしても偶然やってきた演劇に熱心に打ち込む母子、ホテル支配人の不詳の息子の担任などが集まって、今宵も名物宿のどたばたがはじまる。

いくつかのお話が並行して進んで行って、それがこの宿での出会いによってまとまって行く。今回も同じような感じだけれど、今回は演劇母子と先生の出会い、大学で同志だったものの再会、そして小僧時代の仲蔵とオジキの半世紀ぶりの出会い。そんな時間を超えたドラマに焦点があたっているよう。

そして一番の焦点はいなくなった富江、そして孝之介を捨てた母。その2人の間で孝之介はどう振る舞うのか?

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孝之介を筆頭にして、へんてこな人間ばっかりがでてきて、おもしろおかしく読める、そんな小説「プリズンホテル」だけれど、実のところこうやって面白く思えるのは、登場人物たちがあまりにも必死で、一生懸命だから、というようなニュアンスを解説で中井さんは書いている。それを読んで、はたと気づく。まさにそのとおりだな、と。読者は小説の世界を上から(横から?)覗きながらその世界を楽しめるわけだけれど、このプリズンホテルを読んでいると、そこに出てくる人たちの姿が自分に、じゃあ君はどうなんだ?って問いかけているように思えてくる。「君はどうなの?一生懸命に生きてるの?」と。別に正しいとか間違ってるとかそんなことは関係なくて、何かにがむしゃらに頑張っているか?と。

曲がりくねったり、あちこちより道してしまうかもしれないし、間違うこともあるけれど、一生懸命にやってたら、やがて何か素敵なことがやってくる(かもしれない)、と思える/信じられるというのはなんて素敵なことなんだろう。そう信じられる人間がああやって頑張ってる姿はおもしろいけれど、でもやがてすごく羨ましくなってくる、というのは僕はそう出来ていないからだろう。

そう。読み始めたときに、なんでこんな根性曲がってんねん!と思った孝之介も、殴られるだけの情けない女・清子も、罵られるだけの継母・富江も、何も言わなかったという父も、酔狂なヤクザである仲蔵も、融通聴かない支配人・花沢もその息子も、黒田も、大曽根も、仲居の外国人のねーちゃんたちも、どの人も困ったちゃんなイメージしかなかったのに、読み終えた今となってはすごく親しい、身近にいる、ちょっとまぶしく羨ましい人たちのように見えてきている。そういう人たちの姿をこうも見事に、というか、あっけらかんと描いてみせる浅田さんにほんと感謝と拍手を送りたい。

ほんとこんな宿があったらなら、季節毎に訪れてゆっくり湯につかったり、怖いバーで呑んでみたりしたいな。とかくスマートに物をはこびたがる今の時代にはこんな時代遅れ(といったら失礼だけれど)な、人間臭さのある場所というのが、とても貴重で、懐かしい感じがして、実はちょっとうっとおしいなーと思うかもしれないけれど、飛び込んでみたらすごく暖かな世界であるということが分かるんだろう。いい話だった。ほっこり、うるる。

集英社文庫 2001

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