中林憲昭氏追悼ライブ

20150622
ライブに集ったミュージシャンの面々(中島氏は不在)  photo by IKEDA.

一昨日、昨年亡くなってしまった中林さんを追悼するライブがありました。中林さんと関わってきたミュージシャンがすごく久しぶりにたくさん集まり、みんなで彼の曲を演奏しました。お客さんもたくさん集まっていただけて嬉しかったです。こういう場に集まると、まだ学生でろくすっぽ何もできなかった頃にみんなにとても可愛がってもらってなと思い出したりして、いまも相変わらずいつまでたってもヒヨッコ感覚が抜けないなと自分で笑ってしまいます。

演奏したり、みんなが演っているのを聴きながら、こうやって中林さんの曲を演奏するのはいったいいつ振りだろう、と思い出そうとしたけれど、ぜんぜん思い出せませんでした。もちろん闘病中に何度か演奏もしましたが、それではなくてこういうバンドでやるのって、もしかしたら10年ぐらい前かもしれません。彼が倒れる前のことになってしまいました。なのでライブのこととかは忘れてしまった(いまでも覚えているのはWooden Pipeに入る直前にバンドのライブを見にいったとき、なんか凄くて驚いたこと。そして中林さんはぼくが最初に出会ったロッカーだったこと)けれど、曲はどれもよく覚えている。どの曲もすごく好きだから。たまに、よりは多く聴いたりもしますし。

当夜はそんな曲たちを平山修造さんや国次さん、島田篤さん(立って歌うの初めて見た)、飛び入りでカルロス菅野さん(!)らが歌ったのですが、(へんな書き方になるけれど、中林さんが歌ってるのではないのに)なんの違和感もなく、ぜんぜん違うのに、ちゃんと同じ曲に聞こえました。もちろん曲や詞のもつ力というのもあるんでしょうけれど、この夜は中林さんを思うみんなの想いの力、のような気がしました。難しい人だった(はず)ので、バンドやミュージシャンや関係者ともよくぶつかったり、しょうもないことで行き違ったりしたこともあっただろうけれど、この夜はそんなことはどこかにおいて、素直に彼の作品をみんなに伝えて、残していこう、と、そういう気持ちがすべてを洗い流したような気がします。

ほんとうに、いい夜でした。

ライブの様子がYoutubeにすべて掲載されています。ぜひぜひ >> こちら

ほんとどれもいい曲、いい歌ばかりです。でもこうやって本人がいなくなったときに、だれも演奏しなくなったら、その曲たちは死んでしまうんだろうか?音源として残っていたとしても、その存在をだれも知らなくて埋もれてしまったら、やはりないのと同じことになってしまうのだろうか?などと考えてこんでしまいました。毎日湯水のごとく音楽や、音楽のようなフリをしたものが量産され、消費され、忘れられていく中で、ぼくはいったい何を演奏したらいいのか、ふと、わからなくなってしまいそうで怖いです。

曲そのものではなくとも、その曲から与えられた感動やショックやイメージ、そんなものを力にまた違うものを生み出していくということもできるけれど、それぞれレコーディングというすごくクリエイティブな場で、時間と労力をかけて、いろいろ試行錯誤して作られ練り上げられた楽曲たちが忘れ去られていくというのは、堪らなく寂しいことです。それは仕方ないんだろうか、と思ったり、そういうものだからそれでいいんだ、と思ったり、複雑な気分です。ぼくにとってはまだこういう経験は中林さんに対してだけですが、これから増えていったりするんだろうかと思うと、軽く恐怖を感じます。だからこそ自分は自分のことをちゃんとやるべき、という、とても単純明快な答えが見えてくるのですが。

何を書いているのかよくわからなくなってきました。こういう中途半端な文章をブログに載っけてしまうのはあんまりいいことじゃないなあとは思うのですが、中途半端にしかかけないのは自分の未熟さからであるし、いまは何かいまの気持ち(状態?)を残しておきたいのでこのまま掲載します。

とにかく、いまはぐずぐずと中林さんの作品を聴いていたいです。また、演奏できる機会があればいいな、と思います。そして、どれか一曲でも自分で演奏できるものを作って、伝えられたらと、思っています。

中林さんの作品はこのあたりで

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