村上龍 – 限りなく透明に近いブルー

kagirinaku

あまりにも有名な村上龍の作品。映画にもなったっけ? なぜか今まで出会わなくて読んだことなかったのだけれど、逆にいうと今読んでよかったかも。若い頃に読んでいたら没頭していたか毛嫌いしていたかのどっちかだったと思う。

舞台は横田基地のある福生。70年代初頭ぐらいか。戦後は終わり、闘争も影を潜め、時代はヒッピー、サイケ、無気力なんかに移ろっていく(詳しくは知らないけれど)。そんな中、基地の近くの街は兵役の人間やそれにまとわりつく人間たちの異世界と化していた。暴力、ドラッグ、セックス、、、あまりにもなにもかもが刺激的で、刹那的で、退廃的で、なにも留まっているものがない。そんな季節や時間も溶けてなくなったような日々の中をただただ飢えた犬のようにうろつく若者たち。

いまとなっては電車で読んでいて横から眺められたら「うわ」と思われるような文章の連続なので、なかなか読み進めにくかったけれど、たぶん初めてこういう小説を読む村上さんというのもあって、なかなか捗らなかった。気持ち的にしんどいというのもあったのかも。それほど内容は直接的なものばかり。すごく刺激的。子供の頃に見たような原色に近い色、でも少し灰色がかったような映像を見ているような気持ちになる。どこへ向かうのかわからない不安、有り余る若さと力、そして無限にあるかのような時間。すべてが混沌とする中で自分を確かめるためには自分を他人を何かを傷つけないとわからないような、そんな時代。暴力的なまでにそういうイメージが流れ込んでくる。少しはそういう時代に息づいていたから、その残像を感じることができたのかもしれない。

この小説のすごいところは、何もかもが、少し遠い視点、客観的に描くということが徹底されているところなのかも。もちろん主人公の一人称がほとんどなのだけれど、彼のまわりで起こることも、彼自身が感じることでさえ、すべてどこか客観的、簡単にいうと他人事のように描かれること。何もかもがすべて等しく同じような扱いになっている。自分が思うことも他人が思うことも自分がすることもされたことも他人がすることもされることも。そこにはまったく自分はない。外から眺めているような感じ。リアルじゃない感じ。こういうふうに徹底して描くことで逆にリアルな自分が見えてくる、ということなのかもしれない。あまりにも巨大でどうしようもないものに対峙したときに、そこから逃げられなくても、なんとか逃れるために、世界も、そこにいる物理的な自分さえ切り離してしまう。そういうことが意識的にも無意識的にも必要だったようなモノゴトが社会を覆っていった時代だったのか。

なんせショッキングでした。いい意味でも悪い意味でも。時代を知らないと感じ取りにくい作品かも。

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