乃南アサ – いつか陽のあたる場所で

東京のある街のすみっこでひっそり暮らす芭子(はこ)、そして友人というにはちょっと年上の綾香。彼女たちがあまり目立たないようにしているのには理由があった。彼女たちは塀の中にいたのだ。

そんな設定でのおはなし。全く知らない世界だから、あまりにも芭子がおどおどしたり、おとなしすぎたりすることにイライラしてしまうが、そうか、そんなふうに考えてしまうのか、世間は(自分も含めて)きっと同じような反応をして、刑期を終えて償った人間を同じ一種類の人間として見てしまうだろう、そんなことがショックだった。重罪を犯した者も軽微な罪で悔い改めた人間でも、塀の中から出てきた人間に対し、そうでないものたちは異常なまでの興味を示すか、蔑んでしまうだろう。数多の出所者たちがまともに社会復帰できない理由のひとつもそこにある。

主人公の2人も同じように出所してきたことを知られることを異常に怖がる。当たり前だ。でもなんとか社会の隅で生き抜こうとする。でも知られるのが嫌だから思い切ったこともできず、人目につかないようにし、家族からも絶縁され、セクハラを我慢し、何を生きていったらいいのかわからない。普通ならばいろいろ文句のひとつも言えるようなちょっとした世間の悪意に翻弄されてしまう。

それでも若者にドジ呼ばわりされながらパン職人に挑む綾香の姿や、少しずつ近所の人を受け入れる芭子の姿、彼女たちのたくましい生き様を見ていると何がしか勇気をもらえる。

これらの物語はシリーズになっていくそうだが、とても楽しみだ。
重里徹也さんの解説もいい。

新潮文庫 2010

乃南アサ – 氷雨心中

表面上はするっとした物語だけれども、最後にギクっとするような怖い終わり方をする短編6つ。どれもが人間のドロドロっとしたところを表していてコワイ。

家業である線香屋の秘密が怖い「青い手」、男が変わる度に着物を染め直す女と着物屋の人間模様「鈍色の春」、表題にもなっている造り酒屋の時代を越えた愛憎物語「氷雨心中」、ジュエリーデザイナーを夢見る歯科技工師の甘い思いが壊れるとき「こころとかして」、能面に自分のすべてを賭ける舞踊家と能面作家のふれあい「泥眼」、そして提灯屋の妻の密かな思いが突き刺さる「おし津提灯」。どれも秀逸。

怖いけれど、どの話も日本の美しい事柄が描かれていて素敵。それらが美しいから、人間の気持ちの恐ろしささえ美しく感じてしまう。日本てこういう国、人柄だよな。

一番好きなのは「泥眼」。泥眼とは能で用いられる、女の生霊を表すといわれる面。自分の納得のいく面を追い求める女流舞踊家が求める泥眼とは何かということを通して、面打師は彼女の思い、生き方、そして女の人生への諦観、それらを垣間見る。そこに同じような立場である自分を少し重ねて考えてみてしまったりする。少しわかる。分かりたくないけれど、そうなりたくないけれど、すこし近いところにいる自分をみつけて、こわくなってしまう。

幻冬舎文庫 1999

涙 – 乃南アサ

上下巻あり、結構長い小節。

昭和40年前後、東京オリンピックが開催された頃、主にそのころの東京、そして宮古島(当時はまだアメリカ占領下)が舞台。婚約相手の刑事が何かの事件に巻き込まれて突然失踪してしまい、その理由を求め、彼を探し歩く主人公萄子の姿を描いた長編。

何よりも昭和っぽいものが好きなので、話の合間に差し込まれる時代背景の描写、街の風景なんかがとてもうまく、物語の時代性、あの頃の日本の空気感を描けていて、物語に立体感が生まれていると思う。別にストーリーとしてはいつの時代でも良かったんだと思うのだけれど、あえてこの時代設定にしたのは、当時の人間が感じていた日本の広さ、琉球の遠さ、まだ日本人たちがもっと奥ゆかしかった、そんなものを描きたかったから、かな?

長編なので、謎が深まっていくあたりは楽しいのだけれど、それを意固地なまでに追求しようとする萄子の姿が、途中痛いたしく、さらには苦々しく、嫌気がさすようなところまでいってしまうのだが、時間とともに微妙に変化していく彼女の心理の、その微妙な変化の具合の描き方が見事だと思う。

諦観、浄化、うまく言葉で書けないようなラストの主人公たちの、体を食い破られるような気持ちがひしひし伝わってくる。悲しい物語だ。

新潮文庫 2003

乃南アサ – 暗鬼

愛されて望まれて幸せ一杯の結婚をした主人公法子。最初は旧家の大家族の中にうまく溶け込めるか心配であったのだが、あまりにも穏やかで仲のいいその家族に好感を持ち、自分もその輪の中に早く溶け込みたいと真に願う。が、何かがおかしい。実際はそうではなく恐ろしい場所なのではないか、と、疑心暗鬼になりそうになるが、それでもいやいや違うと心を改め再び家族になろうと努力していく・・・が・・・。

ここでは家族を題材にしてるけれど、何かの小さな団体、集団なんかにも同じようなことがあるはず。それらにはそれらの中ではごく普通だけれど、外から見ると異常/異様なことがなにかしら存在する。家の中ならちょっとした食事の習慣やら生活の習慣なんかがそれにあたる。でもそれがとてつもなく異常なものであった場合、はたしてそれを拒絶するべきなのか、それとも受容してその輪の中にはいるべきなのか。後者を選べたならそれは幸せといえるのかもしれない。

ここで描かれている家族はかなり異様だ。のろわれているのかもしれない。けれども彼らは彼らの論理で真剣に生き、社会との接点も正しく持ち、貢献もしている。しかし一般社会常識からはかなり逸脱したシステムをもつ。実際気色悪いと思えてしまうのだが、その中に入り込めれば/溶け込めれば、幸せと思えるのだろう。

文春文庫 2001

乃南アサ – 死んでも忘れない

タイトルが怖い。どんなことを「死んでも忘れない」のか。なので内容も怖いのかなと読み出し始めると、これまた不幸な事柄が絶妙のタイミングで連鎖し、個人の力ではどうしようもない、取り返しのつかないどん底へ落ち込んでいく家族が描かれる。実際こうなりうるようなリアルな設定が、読者を物語に引き込む力をさらに与えているよう。

痴漢の冤罪、いま注目されているもののひとつ。男にとってこれは実際恐ろしいもの。社会における自分を守るため、家庭や家族を守るため、誰しもこの男のような判断をするに違いない。でも、その間違ってはいないはずのやさしさが、時に家族の、人との溝を生み、それがあっという間に取り戻せない深さになってしまう。怖い。

家族の間で、人との関係のなかで、やさしさや、立場、タイミング、いろんな要素が刻々と変わっていくなか、ちょっとしたずれが生み出す不幸の連続。言葉の足りなさが生む誤解、やさしさゆえに口をつぐむことにより生じる誤解、言葉にできずに生じる誤解。人のうわさの恐ろしさ。どこにでもあることが何を生み出してしまうかわからないこの世。こわい。

「死んでも忘れない」この意味は物語を読む人にのみ明かされる。

新潮文庫 1999

乃南アサ – 団欒

「団欒」という、その言葉から想像する場合は、どちらかといえば和気あいあいとしたような、あったかいような、幸せな雰囲気を想像させるものであるのに、この5編からなる短編集はまことにもってゾッとする団欒、家族、恋人たちの模様が描かれている。普通に転がってる題材をこうも人間の負の部分を、また気持ち悪くなくさらっと描ける乃南さんの文書にまたまた脱帽。面白いもん、気持ち悪くても。

”だって家族なんですものね”という言葉ですべてのプライバシーというものがない家族を描く「ママは何でも知っている」、極度の潔癖症と整理整頓だけにすべてを奪われてしまう家族を描く「ルール」、ゲームをするかのように築き上げていた子どものままの世界がわずかなほころびから崩れ去ってしまう「僕のトンちゃん」、実際にありそうな(そしてあったら非常に怖い)、そしてすごく悲しい家族模様を描く「出前家族」、そして死体と一緒に暮らしてしまう表題である「団欒」。

あぁ、どれもシュールすぎる!

新潮文庫 1998

乃南アサ – 窓

「鍵」という小説の続編にあたるそう。先にこっちから読んでしまった。でも登場人物や背景は同じでも違う題材なので、前後しても大丈夫。

聴覚障害のある人というのはいまは身近にはいないが、昔は少しつながりがあったのだけれど、彼らの気持ちや考えていることなんて意識したことなかったし、耳が不自由なことってのは単に耳がふさがった状態だ、という認識ぐらいしかなかったけど、聴こえないということでどれほど不自由な生活、コミュニケーションの難しさ、社会システムからの孤立、人々の無理解、なんかがあるのかということの考えを改めさせられた。自分が・・・と思い描いてみても想像しきれない。

そんな障害によって社会からはじかれた存在と、甘やかされ育ちうまく社会適合できない若者、彼らは立場はぜんぜんちがっているけれど、もしかすると同じ気持ちをもってしまうかもしれない。どう生きていくかによって違いは出るけれど、世間からは同じように扱われてしまうかもしれない。

いまの(といってもこの本が書かれたのはもうずいぶん前だけれど)社会の、とくに核家族化した社会のひずみ、ゆがみと、障害をもつものの世界を見事にリンクさせて、人とのつながりがどうあってほしいのか、ということを考えさせられる本だった。

講談社文庫 1999

乃南アサ – 5年目の魔女

やっぱこういう女性心理の暗い側面を描かせたら乃南さんてほんとうまいというか、凄いな。景子と喜世美、2人の女性の切っても切れない関係。それは縁というものではなく、執着や怨念やらいうものを感じてしまうほど。はっきりいって、こわい。きっと女性にしかわからない女性だけが感じる女性の怖さ。それらがまざまざと描かれている。

魔女的な女性っているけれど、実は見てわかるようなものはほんとじゃなくて、誰しもが幾分かずつもってる性質なんじゃないかな?

新潮文庫 2005

乃南アサ – 6月19日の花嫁

記憶喪失にからむミステリー。主人公が自分の過去を捜していくストーリー。はたして6月19日とは何の日であるのか?

乃南さんのものとしては軽めですいすい読める感じ。仕掛けも複雑じゃないし、どっちかいうと単純なストーリー。相方の男の心情が日記形式でつづられるのが変わってるかなーって感じかな。

それほどインパクトはつよくなかった。

6月19日の花嫁
6月19日の花嫁

乃南アサ – 幸福な朝食

これがこの人のデビュー作だとは・・・・強烈すぎ。何作か読んでるけれど、どれも人間の心理の微妙さ、エグさ、グロさ、そんなものを実に明白にインパクト 大で描いてるので、読んでいてしんどくなったりもするのだけれど、それ以上に物語がおもしろいし、先の読めない、でもちゃんと落ち着くそんなストーリーが 見事で、読んでいてまったく飽きない。

子供の頃は周囲とは一線を画して器量よしとして生まれた主人公はその美貌を一番役立てられる仕事 として芸能界を目指そうとするが、彼女にうりふたつな女性が先にデビューをしてしまう。そこから起こる二番煎じとしての悲劇。何をしてもぱっとせず、あの 人に似ている”だけ”の人になってしまい、そこで抱いた心の傷により違う人生を選んでいくのだが、悲劇の運命は彼女を手放したりはしなかった・・・

と ても才能があって、その才能と同等の才能があるひとがいて、片方が先に明るみにでたとき、もう片方がどうなってしまうのか。そんなこと考えた事なかったけ れど、それがこの物語のような姿形に関わること(つまり自分とは切っても切れない)であったばあい、後者はどんな心境になるのだろうか。また芸能人であっ たばあい、もし自分にそっくりな人が、とくに女性であれば、その女性としての幸せを満喫している自分とそっくりの人間がいるとしたら、どう思うのか。想像 するにもしきれない世界。

でもそんなことを身を切り刻むかのような描写をもって、主人公の苦悩とそれゆえの人生の変遷、そして自己崩壊してしむようすを隠す事なく描き上げているもんだから、ほんと読んでてしんどいのだけれど、でも面白い。この人、すごすぎると思う。

幸福な朝食
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