有川浩 – ヒア・カムズ・ザ・サン


わずか7行だけ綴られたあらすじ。それをある役者が「ここから有川さんがどんな物語を生み出すのか読んでみたい」と言ったことがきっかけでうまれた物語が2つ。「ヒア・カムズ・ザ・サン」と「ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel」。その7行とは

真也は30歳。出版社で編集の仕事をしている。
彼は幼い頃から、品物や場所に残された、人間の記憶が見えた。
強い記憶は鮮やかに。何年経っても、鮮やかに。
ある日、真也は会社の同僚のカオルをともに成田空港へ行く。
カオルの父が、アメリカから20年ぶりに帰国したのだ。
父は、ハリウッドで映画の仕事をしていると言う。
しかし、真也の目には、全く違う景色が見えた……。

このあらすじだけでいろいろ想像できてしまうのに、ここから有川さんがどんな物語を産むのか?ということを考えただけでわくわくする。読み始めたら没頭してしまい、あっという間に読み終えてしまった。そんなに厚くない冊子に2つの物語。これは登場人物や設定はだいたい同じだけれど物語として全然違うもの。

読み終わって最初にしたことは「あれ?これって有川さんの作品やったよな」と表紙を見直したことだった。そう、いままで僕が読んできた有川さんの作品とはどこか感触が違う。ひとつは単純に主人公がちょっと特殊な能力をもっているという設定自体のためだと思う(そんな感じのはまだ読んだことない)けれど、もっと違う感じがするのは、あの喩え方が悪いかもしれないけれど、まるで女子高生のような、甘アマ、とか、ツンデレ、ぽいのとか、そういう部分がぱっとは感じられないところか。でもそれが物足りないというわけではなくて、逆にシンプルにより深く、登場人物たちの感情を表現しているように思えた。

しかしほんと素晴らしい。この同じ設定をもつ2つの物語をこの長さで描ききった有川さん。どちらもアリよねーと思えて、いい結末。野郎と思えばもっとドラマチックな盛り上げ方もできるのに、そうはせずに適度なふくらみでじわっとした終わらせかたもいいなぁ。この2つの物語、どちらかというとぼくは上演された舞台をもとに着想を得たという「ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel」の方が好き。父娘関係、ひいては世の親子関係の描き方、年を食えばそのほんとの姿や変化が見えてくる、そこを気づかせてくれる物語がたまらない。解説で岡田さんも書いているように名台詞(?)のオンパレード。それが何かはここには書かないけれど。それらもすごくぐっと来たけれど、でもやはり有川さんの恋愛小説、いちばんぐっと来たのは父との別れの前の晩にカオルから真也に送られるメールのとこ。いいなぁ。あ、やっぱり有川さん、甘アマやなw

また知らない顔の有川さんに会えたようでうれしい一冊だった。

あと付け足しになるけれど、この本を手に取った最初の理由はタイトル。The Beatlesのジョージの名曲のタイトル。難しい言葉なんかなくて、シンプルに、人生の、生きていることの喜びを、そっと歌った曲。大好き。改めて歌詞を読んで本当にいいなと思った。そんなタイトルをつけた有川さんにありがとう(これはタイトルが先にあったのかな?それとも有川さんがつけたのかな、たぶんそうだと思うけど)。ちなみに、物語にこの曲のことは全く出てこない。そういうところも素敵(気づいてないだけ?)。もしかしたら勝手にビートルズの曲からなんだとぼくが思ってるだけかもだけど。

そういえば伊坂さんとの出会いも本のタイトルからだったな。同じくビートルズの「ゴールデン・スランバー」だった。こっちはポールの曲だけど、好きだなー。

新潮文庫 2012

有川浩 – キケン


有川さんのあぶない小説かとおもって手に取ったけれど、ある意味キケンな(?)お話。ある大学の理系サークルである機械制御研究部、略して「機研(キケン)」のドタバタな日々を描く。2回生で部長であり何事にも突っ走りがちな上野、そして副部長でありもの静かで、存在感だけで威圧的な大神。ひょんなことからこのサークルに入ることになった”お店の子”元山とその友人池谷。2回生2人に率いられたキケンの面々が引き起こす犯罪すれすれな出来事から、体育会系も真っ青な学祭への取り組みなどなど、面白い話いっぱい。

ほんと大学といえばサークル、サークルといえば大学というぐらい大学生活におけるサークルが占める割合は大きい(と、僕は思う、僕はそうだったから)。下手をするとクラスやゼミの仲間よりもこのサークルの仲間や先輩/後輩のほうがその後の人生の友達や影響を与えられ/およぼす人脈であることが多いと思う。そんな多感な時期に面白いサークルに出会えるというのは本当に幸せなことだとおもう。社会に出た責任ある大人でもないけれど、大人と同じくらい行動できて遊べる、そんな大学の時期というのは無駄なことも全力で出来るいい時間。

そしてここでは有川さん得意の理系のお話。なんか理系男子好きなんやろなー、こういう集団をうらやましいーと思って見てたんちゃうかなーとおもわせるくらい、この物語にでてくる男の子たちを可愛がってる。そう、この物語はいままで読んだ有川さんのものとはちょっと違って、ほんと天真爛漫な男の子たちがたんにむちゃくちゃするだけの話(笑)。シリアスなテーマもなければ、メカもでてこない(ちょっとでてくるけど)し、甘アマなロマンスもない(ちょっとでてくるけど)。ホント理系男子たちのアホ話、例えば卒業して10年経って久しぶりに集まって呑みながら思い出して笑う類いの昔のおもしろ話、そんなものを聞いてる感じ。

部室とか懐かしいな。僕の場合大学ははっきりとそういう場所がなかったので、懐かしさを感じるのは高校の部室。学校の中庭にあって、おんぼろなプレハブで、年がら年中そこにいた。授業がなかったときや昼休み、放課後なんかはそこにいくと誰かがいて、練習したり、だらだら遊んだり、夜遅くまで話あったりテープ聴いたりした。いまでもその時の仲間とはずっと繋がっている。やっぱりそんな時間を過ごせた人間たちとはそこで積み重ねた時間の分濃い関係になるのかも。体験の共有というか。

ほんと有川さんはこれらのことを(たとえ作ったお話であっても)すごくうらやましく思ってるんだろうなーと。女子はこういう世界には入りにくい(あとがきでも書いているけれど、こういう理系男子の集団って女の子が一人でも入ると普段の姿ではなくなってしまう)から、それを外から思いっきり応援して、うらやましがる、そんな感じがひしひしと伝わってくる。そういう意味ではまたまた甘アマな感じだなーw

あー、おもしろかった、んで、甘酸っぱかった!

新潮文庫  2013

有川浩 – ラブコメ今昔


有川さん、相変わらず甘アマですごくこっ恥ずかしくて楽しい。「クジラの彼」につづくような自衛隊が舞台のラブコメの小作品集。でも最後の話がまた最初にくるっと戻ってくるちょっとした芸が憎かったり。

いわゆる自衛隊3部作でもその「クジラの彼」でもおもったけれど、有川さんの自衛隊(とかメカとか)に関する知識というか観察眼が徹底しててまずそこがすごくいいなぁと思う。そしてそのメカメカしたところに甘アマの恋愛話をするっとくっつけられるあたりにこの人の物語をつくる高い才能を感じてしまう。でも甘アマといっても全面的にべたべたしてるわけでなくて、うまいポイントでするっと出してくるのがまたいい。すごく濃厚なジャムがちょろっと使ってあるあんぱんのような(違うかw)。

でもこのシリーズの面白さというのはそういう部分だけではなくて、解説で誉田哲也氏が書いているように、描かれている自衛隊員さんたちの姿勢がぶれていないこと、だと思う。物語はおもしろおかしく描かれているけれど、彼等が常に心に誓っていることは「国を守る」ということであって、それをぶれさせることなくきちんと描いていることなんだと思う。ただたまたま面白い素材が自衛隊にあった、ということではなくて、こういう話を書くことによって、普段政治に左右され世論にさらされる自衛隊という組織、無論そこには生身の人間がいるわけなんだけれど、彼等がどういう立場におかれようと「国を守るのだ」という姿勢を第一に常に考えていて、彼等がいるからこそ市井のぼくたちは国の外で起こる物事に対して安心していられる(自分がその立場にはならなくてよい)のだ、ということをぼくらに語りかけているんじゃないかと。

この辺のことは文庫本には「文庫本あとがき」として有川さんの心情が書かれている。「(前略)総理大臣が出す命令ならどんな命令でも従わなくてはならないということで、近年は非常に歯がゆい命令が多すぎました。しかし、どんな理不尽な命令でも、彼らは命を懸けるんです。」、(自衛隊だけでなく警察や消防なども含め)「それを「仕事ですから」と誇ることさえせずに命を懸けるすべての人々が、正しく報われる世の中であってほしいと思います。」

全くそのとおりだと。いままで有川さんのこのシリーズを読んでいてもそんなこと意識できなかったけれど、これはとても大切なこと。ちゃんと意識しないといけない。とおもうと、自衛隊三部作もクジラの彼も、この本も、そして図書館戦争シリーズも有川さんは同じような立場で繰り返し同じことを言っているんじゃないかなと。

2012 角川文庫

有川浩 – 別冊 図書館戦争Ⅱ


図書館戦争シリーズの6冊目で、別冊の2巻目。これが図書館戦争シリーズ最終巻となる。本編とは違うお話だけれど。今回は主人公の郁と堂上から離れて脇役たちにスポットがあたる。そんなに長いシリーズではないけれど、魅力的なひとたちが沢山出てくるから、彼等がどんな背景もったりしてるのかはとても興味のわくところ。

フィーチャーされるのは副隊長であり実は特異な過去をもつ緒方、まだ入隊当時の堂上と小牧の若かりし姿、そしていったん盛り上がりかけたのにその場はあっさり収まってしまい一番どうなるか気になってた小塚と柴崎の恋の行方。それぞれにまた違うエピソードが描かれて本編を知らなくてもきっと楽しめる。相変わらず小塚と柴崎に関してはあまあまで辟易としてしまうけれどw でも恋する姿というのはいつでも憧れちゃうものやなぁと。

おまけはDVD最終巻に寄稿された「ウェイティング・ハピネス」。久々に稲嶺・元司令がでてきて楽しい。

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あとがきの対談で有川さんがとても大事なことしゃべってる。”萎縮しないことこそが、義務!”と。神戸の大震災のときもそうだったし、記憶に新しい2011年の東日本大震災のときもそうだったように、どうもぼくたちは国内で有事あると自粛してしまう傾向にある。もちろんそれが必要な時もあるけれど、そればかりじゃないのは確か。有川さんが発言されているように、よその地で経済活動を自粛されたって被災地はなにも救われない、ということ。簡単なことなのに気づかない、というか、自粛しないということが不謹慎であるという雰囲気が蔓延するのは本当によくないとおもう。音楽だってそうだけれど、こういう本のようなエンターテインメントというのはどうしても有事の際は悪者/邪魔者扱いされてしまう(思われてしまう)風潮がある。でも誰しもそんな自粛やら謹慎モードなんて長続きできないし、いつか破綻してしまうから、そういうものは必要なはずなのに、どうしても自粛ムードに踊らされてしまう。それって危ないよなあ。萎縮して閉じちゃうと経済はますます悪くなるし、そういう視点で「萎縮しないことこそが、義務!」というのは常に心に留め置かねばならないことかな、と思った。

2011 角川文庫

有川浩 – 別冊 図書館戦争Ⅰ


有川さんの「図書館戦争」シリーズの5冊目。本編は4冊で話は終わっているのだけれど、これは別冊シリーズということで、本編では描かれなかった主人公達のその後の姿とか、脇役達に焦点をあてた短編などなど。この別冊Ⅰでは主人公・郁と堂上のその後の恋の物語ばかり。あまりにも甘すぎて笑ってしまうほどw。本編のラストでは2人の結婚後のことがちょろっと描かれたりしているけれど、そのちょうど間を埋めた感じかな。

とにかく似た者同士でとんと恋愛には疎い2人が恋に落ちてからどう近づいて行ったか、そんな話を有川さんは臆面もなく赤裸々に描く。あまりにもストレートなので(でもあいかわらず2人はどじくさい)読んでて恥ずかしいぐらいだけれど、微笑ましくもあり、本編で勇敢に戦った2人のもっと違う面がみられて楽しい。たぶん描いている有川さんがいちばん楽しいのでは?

有川さんもあとがきで書いているけれど、本編とはぜーーんぜん違う話(ともすればタッチも違う、まるで少女小説のような)なので、本編のつづきと思ってしまうと「え?」となる可能性ありだけれど、普通に別のお話と思って読めたら楽しいかも。もちろん本編知ってる方がなお面白いけれど。

おまけとしてDVDに寄稿された「マイ・レイディ」も収録。

2011 角川文庫

有川浩 – レインツリーの国


山本弘氏による解説を読むまでなんとなくしか気づいてなかったけれど、この本のタイトル、同じ有川さんの「図書館戦争 図書館内乱」のひとつのエピソードにでてくる(架空の)本のタイトル。主人公の上官のひとりである小牧と幼なじみの難聴をもつ少女毬江の物語。そしてこの有川さんの物語も健聴者と難聴者の恋の物語(図書館戦争〜の中で小牧は毬江にこの本いいよと薦めた、なるほど)。見事にお話が入れ子になっていて素敵。さらにこのお話の中で主人公・伸行とヒロイン・ひとみが出会うのもある小説を通してのこと(しかもネットで)。このある小説のあらすじもやはりこの「レインツリーの国」とうまくだぶらせている部分があって、これまた素敵。有川さん見事です。

このお話もやはり有川さん、思いっきり恋のお話だけれど、今回は甘々ではなくて、ツンデレでもなくて、ちょっと厳しい恋。「図書館戦争シリーズ」の’床屋’と’理髪店’の下りを読んでいるような気分になった。知識としては知っているけれど(もちろん身の回りにもいないことはない)難聴者のこと。普段は何も気にせず「あ、耳が悪いのね」程度にしか考えてないけれど、ここででてくる、途中失聴/難聴/聾/聾啞の違いなんて知らなかった。知ってたとしても区別できないし、ましてやその人たちの立場を想像することなんかできるわけがない。でも有川さんはそれを(禁止語のときと同じく、これはメディア的にはNG的ネタだ)真正面から描き、「難聴の人は物語のヒロインになれないの?」といわしめた図書館戦争の毬江の台詞をまたここでも投げかけてくる。僕も含めた健常者(この言い方もおかしい気がする)なら、目を閉じて、蓋をして通り過ぎてしまいたくなる、知りたくない考えたくないと心のどこかで思っていた部分を明るい場所へもってきて、そこには違いがあるだけで優劣はないし、ましてや区別されるものではない、と教えくれた。

有川さんのこれらの本のほんと素晴らしいと思えるところはこれらのやもすれば重たい話題を「恋」というフィルターを通して知識としてではなく、感覚として説いてくれる部分じゃないかと思う。これらのことを論文然と書かれたら面白くないと思ってしまうけれど、有川さんのように楽しく哀しい物語として描いてくれたら、お話として楽しめて、そして彼らの気持ちになってこういった事柄に触れることができるんだと思う。勇気と根気をもって書いてくれて、そしてまた新しいことを教えてくれて、ありがとう有川さん。

新潮文庫 2009

有川浩 – 植物図鑑

相変わらず楽しいです、有川さん。そして扱うネタもおもしろく、そして意外な組み合わせ。これだけあったらほんとごはん3杯ぐらいいけそうな、そんなお話が詰まってました。で、やっぱりとろとろにラブコメだけどw。あまりにおもしろかったので一気読み(食い?)してしまいました。

身の回りにいくらでもあるけれど、普段はまったく気にしないそのへんの雑草たち。知りたいなとは思うけれどよっぽどの機会がないと憶えられない植物/花のなまえ。昨年育てたあさがおのようにずっと付き合うと自然といろいろ憶えるけれど、街や川の土手や山なんかに生えている本当にたくさんの植物の名前、見たときはふーんとおもうけれど、結局全く憶えられない。憶える気がないのかというとそうではなくて、単に憶えるだけじゃなくて、何かとセットじゃないと憶えない(憶える気にならない)のかもしれないな。

そういう点でこの「植物図鑑」はたんにそのへんの雑草(雑草にはすべて名前があるそうです)の名前を羅列するだけじゃなくて、食べたり飲んだりすることと組み合わせてくれたので、俄然憶えたくなりました。またどの料理もうまそうで、同じ素材(雑草)でも料理屋で食べるものもいいけれど、そうやって自分の手で摘んだものを自分で料理するってのはとても楽しいんだろうなーと、強烈に思ったから。そういう目でみてたらその辺の道ばたの道草がなんでも食べられそうに思ってしまうのは、あまりにも短絡過ぎかも、だけど。

なんせ、普段インドア傾向だけれど、ちょっとその辺でこんな楽しい思い(冒険?)ができるなら散歩も悪くない、いや、散歩はもともと好きだけれど、なぜか散歩するときは上ばっかり見てたので、今度から下向いて歩こうw。そんな気持ちをわかせてくれるくらい、ほんと身近なところにたくさんの素敵な草花があって、それらはとっても面白いよとこの本は教えてくれた。有川さんありがとう。

有川さんのこのラブコメ度は苦手(とくに男子)かもしれないけれど、新井素子さんや栗本さんを読んでいたからか、全然ましなような気がする(もっと爽やかかな)。苦手でもはまると面白いんだけどなー。

子供の頃は父が好きで、タケノコ掘ったりワラビ採りにいったりしたけれど、子供の頃はその面白さはいまの万分の一も感じてなかったんだろうなーと、今更ながら悔しいです。あれ一体どこいってたんかなぁ。も一回行きたいなあ、今行ったらきっと楽しいのに。

有川浩 – 図書館革命

図書館戦争シリーズ最終作、4冊目。結局やっぱり一気読み。おもしろいんだもん。恋のゆくえもさることながら、図書館のゆくすえ、おいては現社会への問題提起(と、勝手に思ってるのだが)がどうなるのか。

今回はいままでのようにエピソードが並んでいるのはなく、一つのおおきなお話。でも前作からつながってる。いきなり国内において原発テロが起こる、というシーンから。これにはびっくり。2011年の東日本の大震災も記憶に新しい(というかまだ続いているよね)けれど、あのとき少なくない数の人々が日本の弱点に気づいたはず。それを理解した上でかこの”原発テロ”の出だしにはびっくりする。しかも若狭だし。

このテロが起こったことにより(テロの真実については謎のまま、犯人がすべて死亡してしまう)、日本という国が国際テロのターゲットになりえる国になった、という解釈になるだろう。そしてこのテロの手口そのままを描いたかのような(犯人たちが参考にしたのではないかと疑われるほどの)著作を持つ(無論フィクションである)小説家が世間の注目を集めることになった。それは「テロなどを未然に防ぐため、このような危険な事件の参考になりうる著書を書いた作者の執筆は制限されるべきであるか否か」という点であった。

3作目では言葉に対する検閲に対して問題提起した有川さんだけれど、今度はそれを含めて表現の自由はいかなる場合も守られるべきかどうか、という、作家さんたち自体がもつ大きな問題に焦点をあてているように思う。”国”や”社会”といった公共の利益のためにはたとえ一部とはいえ”表現の自由”は制限されてもよいのかどうか。とても難しい問題だと思う。日本においては憲法において保証されている権利であるが、ひとつ間違えば、いまから数年後には変わっているかもしれないような世の中の流れだ。対象や目的は違えども、いまのこの日本を覆う不穏な空気の一端を指し示しているかのよう。もちろん人によって意見はばらばらになるだろう。

ここで有川さんが繰り返しキャラクターたちの口にのぼらせるのが、この国の国民たちは自分たちが直接関係ない(対岸の火事)出来事にはあまりにも無関心すぎる、ということ。いざ自分に影響がでるときまで過ちに気づかない。もしくは知ろうともよく考えようともしない。それがとても危険なことである、と。上記のようなことがもし現実に起こった場合、多くの人々は「制限もやむなし」と考えるかもしれない。それはそうだ、本に感心がないひともたくさんいるだろうし、ましてや多く存在する作家のうちの一人の著作が制限されたところで、大半の人には関係ないものであるから。でもこれはとても危険なこと。ひとつの例が作られれば、その上に同じような例が積み重ねられていくというのは歴史をみれば明らかなこと。「一部制限する」というのは「ほぼ全部制限する」のと同意なのだ。

物語はその作家をいかに守るか(図書の自由をまもることはすなわち作家の執筆活動の自由をも守ることである)というストーリーで、どんどん手詰まりになっていく中、郁の何気ない一言で物語がおおきく展開していく。今回は隊員たちの動きがドキュメントのように手に汗を握る感じですごくリアルで面白い。そして堂上と郁の行く末も。

一気に4冊とも読んじゃったけど、こりゃ別冊も読まないと気が済まないなあ。

今回のおまけは手塚と柴崎の物語「プリティ・ドランカー」。児玉さんとの対談も最終回。

有川浩 – 図書館危機

図書館戦争シリーズ3作目。ほんと面白い(というか有川さんが好き)なので一気読みしてしまう。普通シリーズものでもちょっと間を置いて頭冷やしてから読んだ方が新鮮味あってよかったりするのだけれど、このシリーズ、止まらない。。。w

今回も5つのエピソード。図書館で多発する痴漢事件を取り締まる「王子様、卒業」。郁と同期たちの昇任試験の苦労話「昇任試験、来たる」、人気俳優のインタビュー記事から発覚する自主規制/検閲の問題「ねじれたコトバ」、郁の地元茨城で開催された美術展の最優秀作をめぐる攻防「里帰り、勃発」、そしてその茨城の攻防当日の模様、そしてその攻防のもともとの原因となった地方の図書隊管理の問題責任について「図書館は誰がために」。かわいらしいエピソードから、このお話のキャラクターたちがもっとはっきりいきいきするお話。そしていわゆる「日野の悪夢」にも近い茨城での攻防・・・。有川さんの想像力の翼はとどまるところを知らないのか、すごいな。前作で登場した郁の同僚・手塚光の兄・慧と彼率いる「未来企画」が図書館界に結構影響をおよぼす存在になってくるし、どういうラストを迎えるのか、楽しみでならない。

ま、話の面白さはさておき、この巻のメインは前作の巻末で手塚兄の手紙のおかげ(?)で郁が憧れていた”王子様”が正に上司である堂上であることが発覚して、とくに郁の行動や思いがぎくしゃくしたりするところかな。おもしろいもん。女子っぽくて。女性じゃなく、女子(笑)。

でもこの巻でいちばんひっかかるというか、ああ、と思ったのは、3話目の言葉をめぐる問題について。僕もそうだけれど本をはじめとしてたくさんのメディアに囲まれて日々暮らしていると、その膨大さも原因のひとつかもしれないけれど、知らないうちに言葉/表現を制約(選別?)されていることには気づかない。いまの社会では一応自主規制という形で各メディアが指針を決めて使う言葉を選んでいるのだけれど、この本の世界のように(でも、そんな遠い世界の話には思えない)違法とわかりながらも検閲が存在するような世の中では、一般市民が普通に使っている言葉でさえ、誰かの横やり(その大半が悪意のない親切心からによるものである、というあたりがまた恐ろしい)によって禁止される言葉となってしまう。

この3話目では”床屋”という言葉が問題になっている(実際に床屋は放送禁止用語にリストアップされているみたい。というか●●屋という表現自体が差別的表現だという理由により – その理由も”特定の日に金銭の授受が行なわれる商慣習を持つ商いでなかったことから、軽蔑を込めて用いられる”だからだそう。そんなに月清算とかできる職業が偉いのか?)。エピソードの主人公である人気俳優が愛情を込めて使った”床屋”という言葉が検閲に引っかかるため、それを”理容店”や”理髪店”等の言葉に直さなければならない、という問題だった。本人は祖父が生業とし、自分を育ててくれた”床屋”という職業(しかも祖父は自分自身をそう呼ぶ)に愛情と尊敬を抱いているのに、つまらない、誰のためだかわからない検閲/規制によって使えず、傷つく。一体言葉を正しく用いているのは誰なのか?

どんな言葉でも使い方、使うタイミング/シーンによって適切/不適切はあるだろう。たとえ昔からあった慣習だからといってそれは時とともに変化していくし、大多数の人に当てはまったとしてもそれは全員ではない。使う側、使われる側がお互い理解し合ってやりとりされる言葉に関して、どうして彼らと関係ない第三者が「よくない慣習だから」「差別用語として使われるから」という大義名分でさばくことができようか?

社会的に中立(公正というほうが適当か)であらなければならないメディアにおいては(といいつつ中立・公正なメディアなんて今はないように見える)、不特定多数の人を相手にするため、放送禁止用語のようなものを規定するのはやむを得ない部分もあるのは分かる。教育の現場でも同じかも知れない。でも、そうやって大きな影響力をもつものたちが強制的に言葉を伏せる(狩る、とも言われてる)ことにより、その言葉自体の存在がなかったことにされる、ということ自体が危険であるような気がしてならない。それは言葉だけではなく、社会一般通念的なことでも同じかも。簡単に言えば「危ないものには蓋をしてしまう」。例えば、溺れる危険があるから池を立ち入り禁止にする、だから近づいてはいけない。それはその通りなのだが、そうしてしまうとなぜ池が危険なのか、どうしたら溺れてしまうのか、溺れるということはどう危険なことなのか、という知っておくべきことさえも知りえないことになってしまう。なんでもかんでも禁止してしまえば波風は立たなくていいのかもしれないが、どうして波風が立つのか?危ないことはどこにあるのか?どう危ないのか?ということまで蓋をしてしまうことは、非常に危険なことだと思うのだが。

話がそれたけれど、その放送禁止用語にもなっている”床屋”という言葉を、では著作の上で使うというのはどうなのだろうか?上記的解釈であるとNGのはずだが、表現の自由という面から、そして著者が意図して使う場合においてはどうなのだろうか?そんな問いかけを有川さんにされているような気がする。お話の上でも、今の社会においてもNGの言葉をお話の上とはいえこの社会に”字という媒体”で見せてくるこの見せ方。有川さんすごいなぁと思う。あとがきの対談でもそんな話(見えない規制)になったりしているけれど、勇気をもって(そして出版元の理解)こう突き進んでいく有川さんに尊敬の念を抱かずにはいられない。

相変わらずおまけの児玉清氏との対談は深い。おまけは「ドッグ・ラン」

角川文庫 2011

有川浩 – 図書館内乱


図書館戦争シリーズ2作目。1作目とは違い、5つのお話が(といっても時系列だが)並んでいる感じ。新たに出て来たキャラクターが実はこの後の展開を握っていたりする伏線になるのも楽しい(読みながらなんとなくわかるけど)。

図書特殊部隊配属になったことをひた隠しにしていた主人公・郁の職場見学にやってくる郁の両親とのドタバタを描いた”両親攪乱作戦”、後天的な難聴になった年下の幼なじみが事件に巻き込まれる”恋の障害”、郁の同期の美人・柴原に近づく謎の男”美女の微笑み”、やはり郁の同期の優等生手塚の兄・慧との確執”兄と弟”、そして郁が図書隠蔽事件に巻き込まれる”図書館の明日はどっちだ”の5編。一応違うエピソードにはなっているが、時系列なのでちょっとずつ関係性があるし、とくに手塚の兄・慧と彼が率いる「未来企画」と名乗る研究チームが暗い影を図書館に落とす。

良化委員会と図書館の争いのことはもちろんだけれど、その辺りの権力の綱引きにより隊員たちが大なり小なり事件にまきこまれ被害にあう。単にお話としても面白いのだが、そこに著者が光をあてるのが、普段はまったく見えないけれど実は大きく社会に働く権力の実態のようなもの、だ。ここではあくまでもフィクションとしての検閲と表現の自由の対立の構図だけれど、リアルな社会にはこれに似た構造のものが実はたくさん存在している/しているのではないか?という問いかけをされているような気がする。単に話がおもしろいからそんなこと考えずに読み進めばいいのだけれど、どうもそういうことに問題提起してるように思えるのは、思い過ぎか?

ま、そんなことはおいておいて、ちょっとずつ成長する郁を見ているのが楽しくて仕方ない。まわりのキャラクターたちもどんどん自己主張をはじめてきたし、やっぱりそれぞれの恋がどうなっていくのかが楽しみ。ラブコメだもんねー(笑)

今回も文庫本にはおまけつき「ロマンシング・エイジ」。そして児玉さんとの対談もすごくいい、男女関係のおはなしと社会のありようについて。