片岡義男 – 今日は口数がすくない

片岡さんを読むのはもしかすると25年以上ぶりになる。高校生のころすごくすごく好きでよく読んで、たぶん50冊以上読んだんじゃないかな。そのころはこの片岡さんの描く大人の世界(たぶん20前から20代の男女の話が多いとおもうのだけれど)にとても憧れていて、こんなお洒落な(そう、バブルに向かう途中で景気がよかったのよね)世界がまぶしくて自分もいつかこんな感じに、なんて思っていた(いま考えたら無理なのわかるけどw)。

先日お正月に実家に帰ったときに、自分の部屋の本棚にあるのをみつけて(あんなにたくさんあったのにもう数冊しか残ってなかった)どんなだったか読んでみようと一冊持って帰ってきたのがこの本。ほんとによく読んだけれどどの本もぜんぜん中身は憶えてない。四半世紀たったらそんなもんかな。でもページをひらくと内容は憶えてなくてもその文体や雰囲気から当時憧れていた気持ちや懐かしい風景が蘇ってきた。

短編が7つ。朝食を彼女ととる想像をしてしまう「朝食を作るにあたって」、次々と理由なく酔いどれる女性の相手をする表題でもある「今日は口数がすくない」、女性とライフル「標的」、次々と彼女を女友達にとられてしまう「僕と結婚しよう」、ある女性と以前の彼女が住んだ町を歩く「彼女を思い出す彼」、男女4人の恋愛模様「おなじ日の数時間後」、短編のネタをふたりでさがす「火曜日が締め切り」。どれもいいなと思うけれど、それはストーリーがというより、その文章からうける雰囲気みたいなものが、という感じ。

片岡さんの文章はとても視覚的・映像的だと思う。説明みたいなものがあんまりなく、最小限の描写と短い会話、(その時点ではあまり知られてなかったような)お洒落な大人のアイテム、スムーズな時間のながれ。ストーリーよりも文章から薫ってくる雰囲気とか男女の恋愛の甘い感じとか、そういうところがまず伝わってくる。そしてとにかく洒落ている。簡単に言うと生活臭みたいなものがほとんどない。都会的。舞台が田舎であってもうまく風景を切り取って素敵に配置する。写真でもそうだけれど画角に入るものの切り取り方で本来のまわりの印象は消されてしまいターゲットだけが浮き上がる。のように片岡さんもなにもお洒落なものを集めて書いたというのではなく、どこにでもあるものをうまく切り取って、それがくずれないようにうまく配置して並べる、というのがとても巧みにできるんじゃないのかなーと今になって思う。

たとえばこの本の中だったら「標的」という短編があるけれど、ストーリーというのはほとんどなくて、描かれているのは主人公の女性の身体の筋肉の美しさや動き、そしてM16A1というライフルが分解された状態から組み上がるまでの様子。やもするとくどくどとした説明書きになってしまいそうなのに、片岡さんはそれらをまるでカメラマンがうまくフォーカスをずらしていくように、映画監督がカット割りを工夫するように、正確に表現するけれど冗長ではなく、マニアックだけれど退屈でなく、なめらかに連続する映像が読者の視点をうまく引っ張って、かつところどころでポイントとなるようなアイテムを配置して、それらが全体でクールにまとめている。

あんまり憶えてない(また読み出したらいろいろ思い出すかも)けれど、この片岡さんの本からいろいろ大人とかちょっと洒落たアイテムなんかを拾ったなぁ。”洗いざらしのジーンズ”とかw 具体的なブランドとかそういうのは出さないけれど、そういうものを醸し出すものものを片岡さんはよく出してきた。それらがいちいちぐっときてたのよね。

ぼくにとって80年代半ばから後半といえばこの片岡さんの本、わたせせいぞうの漫画、FMステーション(FM放送の番組表雑誌)の表紙(鈴木英人さんというひとが描いていたそう)、そして小林克也だったな。今はどれとも全然関係ない生活してるけれど、でもやっぱりこれらには影響うけていることがはっきりわかる。すごく久々にあのころの甘酸っぱいというよりはもう少し、こう、体の奥のあたりがもやもやする感じ、を思い出した。とても簡単に言ってしまえば、青春だったんだな、と懐かしく思う。もうちょい読み返してみようかな、思い出とともに。

角川文庫 1988