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阪神大震災

20年の節目

20150117

少し時間があいてしまいましたが、先月の17日で阪神大震災から20年が経ちました。やっと、なのか、もう、なのかなんとも表現しにくいのですが、普通の感覚で考えたら長い年月ということになるのかもしれません。なので普段の生活をしていると、もうすっかり過去のことになってしまったかのように思ってしまいます。しかし、先日の震災当日に報道された映像などを見ていると、震災は全然過去のことではなく、未だに生々しい今の感覚として感じている人も少なくないんだなと思いました。

でも、ぼくはこの20年がひとつの節目になる/なってしまうんだろうなと思います。20年といえばその頃生まれた子供たちが成人を迎えるわけで、ある統計では神戸市では震災を知らない人の人口比率が44%にもなったそうです。被災して亡くなった方、立ち退いて遠くへ移らざるを得なくなってそのままの方、20年の間に亡くなった方、そして新たに産まれたり神戸にやってきた人たち。確実に人は流れ入れ替わり、知らない人がたくさんいても全然不思議ではありません。震災のことを他人事や余所事のように感じる人が増えて、記憶や記憶が風化していくのはとても残念で寂しいことだけど、それは仕方ないことであり、もしかすると必要なことなのかもしれません。

もちろん忘れ去ったり記憶を葬り去ってしまえというわけではないし、体験した人間が記憶し思い出し伝えていくことはとても大切なことです。けれども(そんなことはないと思うんだけれど)体験したことの悲しみや喪失感に引きずられていつまでも悲しみ続けているだけという状態からはそろそろ卒業しないといけないんじゃないでしょうか。と言いつつ本当はほとんどの人はもうそうなっているのに、メディアの報道を見ているとどこか悲しむために悲しんでいるように(もしくは悲しさを過剰に演出しているように)見えてきてしまい、そうなって欲しくない何かか誰かがいて、そんな雰囲気を醸し出そうとしているんじゃないか?と思ってしまいました。

震災は年月が経ってもなかったことにはできない、たしかにあった出来事です。そしてそれを体験したたくさんの人がいて、その体験も感じた悲しさも消えることはなく、もうそれはその人の一部になって今という時間を生きていっている。街が再生されて綺麗になっていたとしても、未だに震災のときのまま土台だけ残して空いている土地も少なくなく存在し、街もまた震災の記憶をどこかに含んだまま新しく踏み出している。もうそんな段階に入っているんだと思うんです。だからもっと(変な言い方だけど)肯定的に震災の記憶を/悲しみを受け入れて、昇華したり糧にしたりしながらともに歩んで行く、そんな気持ちになる、そういうふうに被災者もそうでない人も社会もその他有象無象も一緒に変わっていくんだということを意識する時期なのではないでしょうか。それが20年というタイミングなんじゃないのかなと思うのです。

たぶん表立って阪神大震災が取り沙汰されることも少なくなっていくだろうし、ますます記憶は薄れ、伝えるものも形骸化していくでしょう。でもぼくは忘れません。ときには思い出すし、機会があれば伝えようとするでしょう。それはごくごく個人的なことでいいと思っています。社会としてはこれらをきちんと記録して教訓とし、追悼と感謝の念を忘れずにあればいいと思います。外から貼られる/貼りたがられるレッテルはもういらない。

今年はそんなことを、思いました。

でも、20年の経った神戸でさえこんな風に思うのだから、まもなく4年を迎えるもっともっと被災地が広かった東北はいったいどうなるんだろうと心配しています。また東北いきたいです。

改めて、被災した方々、それにつながる人たち、力を尽くしてくれた方々、思いを寄せてくれた人々、すべての人に追悼と感謝を。

2015.2.4 武井努

19年

20140117

1995年の阪神・淡路大震災からもう19年。去年の1/17に「18年か」と思ってからもう一年経った。年を追うごとに月日の流れがはやくなっている。さすがに19年もたてばお昼のNHKの全国ニュースのトップニュースにもならないし、震災時刻の報道もNHKとサンテレビだけになってしまった。それだけ時間が経ったということもある(自分の中でも記憶が薄れつつある部分も多い)。もう大学生ぐらいでも知らない人が多いような災害になってしまった。でもこれは仕方ないこと。

思い出というか憶えていることを少し。あのとき僕は灘区の灘駅前に住んでいた。社会人一年目の終わりの頃だった。3連休の最後の月曜日だった前日に姫路で友人の結婚式があり、終電近くまで呑んで、「このまま会社いったろかな」とか思いつつ帰ってきて結構遅くに床についたのだが、5時46分の少し前に海の方からやってくる大きな地鳴りに起こされて「何やろ?」と思ったとたんにドン!という音と共にあの大きな揺れ。ほんとジェットコースターに乗ったかのような感じというか何がなんだか分からないうちに部屋はめちゃめちゃ。這々の体で玄関から出て、壊れかけたマンションのドアを蹴破って(すいません、ちょっと壊してしまった)出て、少し明るくなってきた空のもとで見た街の惨状。地面が割れてたり、裏の家がぺしゃんこになってたり、遥か西の方から煙が行く筋も立ち上っていたり、初めて見る光景だらけだった。近所のおばちゃんが持ち出したラジオで浜村淳さんが「大阪で大きな地震です」としゃべってるのを聴いてようやく「あ、地震なんや」と分かったほど動転していた。

さすがに会社に行くことができなかったのでその週はおやすみになったのだが、じっとしていても仕方ないので、あちこち歩き回った。ほんと三宮はひどかった。17日はまだフラワーロードの柏井ビルは倒れてなかった。あちこちガス臭かった。長田に一時住んでいて、そのあたりは長屋が多いところだったのだが、そこは延焼は免れたものの全部倒壊して(家って倒壊したらただの瓦礫になってしまうということを初めて知る)ぺしゃんこになり遥か遠くの蓮池中学校が見えてるような有様だった。

春前ぐらいかに母親が神戸にきたときに一緒に電車にのった。そのとき長田も通ったのだが車窓の風景を見て母が「空襲のときとそっくり。よう見やんわ」といって目を逸らして涙ぐんでいたのが忘れられない(母は堺で空襲にあい、その後も米軍機の機銃掃射などにも脅かされたそう。コクピットの米兵が見えるほどだっとか。母の生家には焼夷弾の跡があった、六角形の断面なのですぐわかる)。

今朝も神戸の市民のつどいに歌手の森祐理さんが出演して歌っていた。彼女が震災で亡くした弟の渉くんは僕の大学の軽音の後輩(テナー吹きだった)であり、しかも同じ泉陽高の出身。お葬式で彼女に会ったのを懐かしく思い出す。今年も森さんは美しい声で歌っていた。彼女の上にも僕にももう19年の年月が流れたかと思うとたまらない気持ちになった。

多分いくら若い人たちや子供に震災の話をきかせたり映像を見せたりしても、知識として知ることはできても経験にはならない。いくら怖い話をしたって実感できなくて当然だ。残念ながら経験は体験してこそ得られるもの。だから、たぶん遠くない将来にまた同じような災害が起こりうるということを震災を体験した大人はしっかり肝に据え、そのときによりよい対処ができるよう、せめて今日だけは昔のことをじっくり思い起こすようにするべきだと思う。

当時発行された写真集を眺めながら。
震災で亡くなった方、被災した方々に祈りを。

011718

早いものです。もう18年、いやまだ18年か。

やや薄らいで来たような気もするけれど
まだ心の奥にひっそりとたたずんでいる記憶たち。

あの日あの時間、こんなにも暗かったのだろうかと思う。
地の底からわき上がるような、ざわめいた空気と騒音。
鳴り響くサイレン、立ち上る煙の筋。

 

すべてが変わってしまった。

そのときはその恐ろしさにおののいたけれど、
今はあの日があったから、今日があると思える。

ぼくたちの年号は、あの日が境になっている。
昭和でも、平成でもない、阪神大震災という年号が。

 

震災で亡くなった方、
いまでもつづく悲しみを背負う方、
苦労と喜びをともに分かち合った方、
すべての人に祈りを。

 

17年経って

95年の阪神大震災からもう17年も経ちました。自分自身の感覚としてはそんな前のことではないのだけれど、テレビ画面に映る三宮の東遊園地には若い人も少なくなく、あのとき生まれていなかった人もいるんだよなあと思ったとき、長い年月が経ったんだなと今更ながら思いました。だって自分にとってはまるで昨日のことのように思い出せることだから。

あの地震の前後で生きているということに対する考え方が確実に変わりました。普通に生きているということのすごさ、不安定さ、今という瞬間の先には何があるか誰も分からないのだという当たり前のこと。何もなければ確実に意識しなかった事柄が目に見える現実としてそびえ立ったからです。

僕自身は部屋がめちゃくちゃになったぐらいで特になにか被害を受けたわけではなかったですが、電気もガスも水も来ず電話さえ通じないので数ヶ月間あちこちを転々とする暮らしをしましたし、地震後しばらくしてから塞ぎ込むようになり、土日は一食も食べずにずっと布団の中から出ないような状態にもなったりしていました(でも会社は行っていたようだ、あまり憶えていない。ただ体重が50kgを割りそうになった)。

でも今思い出してみると、こんなことを書くと確実に誤解を招くけれどそこを敢えて承知で書くと、あんな大変な日々だったのに、あの非常事態の数ヶ月間は楽しかった、というかワクワクした ? うまく表現する言葉を見つけられないけれど ? のでした。つらいこと、目を背けたくなるようなこと、諦め、恐しさ・・・いろんなことがあったけれど、それと同じぐらい生きている/生かされているという偶然のすごさ・素晴らしさ、人のあたたかさや優しさ、そんな当たり前のことを強く実感できる時間でもあったのです。実際あの時期、震災にあった人たちはみんな優しかった。お互い立場は同じなのだから、力を合わせよう、お互い補いあおうという感覚が普通のことでした。悲しい現実をみんなで分かち合い、そこからなんとか良くしようとみんなで協力する、言葉にするととてもシンプルなことだけれど、震災以前の生活の中ではここまで人々が同じ思いをすることはなかった(忘れていた)と思います。だからそんな時期はある意味楽しかったのです。でもこれは渦中にあった人間しかわからないことかもしれないですが。

昨年3月11日には東北での大地震そして津波があり阪神のとき以上(大きさで比較するのもおかしな話ですが)の災害となりました。数多くの映像や情報からその凄惨な状況が明らかにされていって多くの人が僕自身も含め心を痛めたことでしょう。でも事実を目の当たりにして酷い、気の毒だ、悲しいとおもう事は誰にでもできるけれど、揺れてどれほど怖かったか、津波がどんなに恐ろしいものだったのかということはそこにいた人間にしかわからないことです。だから僕たち外から見ていた人間はなにか復興の手伝いをする/しようとすることはもちろん大事なことだけれど、少しでもいいから被災した人たちが受けたものを想像し、忘れずに憶えておくこと、思い出すこと、考えること、共感すること、が本当に大切なことなのではないかなとおもいます。

今この世の中に欠けているもののひとつは”時間をかけてじっくり想像すること”なんじゃないかなと思います。次から次へと降ってくる情報に右往左往しているだけで精一杯でひとつのことに構ってられない状態では、たくさんの情報を得たとしても流れていくだけで心の底には積もりはしません。東北の震災以来「絆」という言葉がよく取り上げられていますが、そんな簡単(といってしまっては失礼ですが)なもんじゃないとおもいます。「絆」という言葉のイメージと、たくさんの情報を知っているというだけで繋がっているような気がするだけになっていないか、考えてみる必要があると思います。

2つの大きな震災(もちろんそれだけではないです。大きな地震は2~3年に一度起こってます)は僕たちに物質的に失ったものよりももっと大きな何かを失っていたことに気づかせてくれたのではないかとおもいます。ばらばらになってしまっていたものが近づいたときのあたたかさや喜び。手を差し伸べ、結ぶことだけではなく、同じ方向を見たり、想いを持ち寄ること、共感すること、人と人とのつながりは一方通行では無理なんだ、そんなことを忘れていた、と。

阪神の震災から17年経ってもまったく変わらず癒えないひとたちはたくさんいます。東北の震災についてはこれからです。でもこれらは終わることはありません。だからこそ今の気持ちを胸に抱いて忘れずに、思って、生きていきたいです。

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