29年

今日で阪神淡路大震災から29年。

もう29年、あっという間のように感じる。とくに今年は年始の能登半島の地震のこともあってかよく思い出す。寒かったこと暗かったこと怖かったこと。倒壊した家屋や火事になった場所、避難所の様子や支援やボランティアの人の様子、自衛隊などなど、あの時のことを追体験しているよう。もっとも当時は周りがどうなってるかもわからなかった。

今でも、この瞬間あの揺れがくるんじゃないかと思って毎日寝てる。地平線からやってくる地鳴り、地震と理解できないような大きな揺れ、破壊の音、ざわめく空気、サイレンの音、どこからともなく降ってくる白い灰、、、、いつ思い出しても震えがくる。忘れようのないことだから、これらもまた自分の一部なのだと受け入れて、今日を生きていくのが大事なのだと、気持ちを改めて。

みんなが安らかにいられるようになりますよう、と今年も祈る。

28年

1月17日、忘れられない日付。

28年という時間が経って、世間における今日この日の意味というか感触が変わって来ている気がするけれど、自分の中では何も変わらない怖い記憶。

ぼくが生まれたのは戦争が終わって24年後。だから阪神淡路大震災に対してはいま4歳の子供と同じ認識なわけだ。戦争のことは知識や絵としては知ってても実感はほぼない。いくら映像があっても、たくさんの言葉を積んでも伝えきれないことはあるだろう。

人々が賢ければ戦争は避けることができると思うけれど、自然災害は常に隣にあって避けられないもの。心構えや備えが大事。それだけは実感がともなうように伝えていかねばならないことだと思う。もちろん被災の怖さや悲しみ、そこからの回復も含めて。

改めて阪神淡路大震災で亡くなった方々にご冥福を。そこにつながる人々が心安らかでありますように。

11年

今日2022年3月11日で東日本の震災から11年。はやいです。阪神の震災からはもう27年経ちましたし。しかしどれだけ時間が経ったとしても体験した人には忘れられない経験であり、今も生々しく続いている現実だけれど、そうでない人々には過去のこととなりつつあるのが実際のところなのかなと思います。

もちろん僕もそのひとりだけれど、何もできなくとも、せめて記憶していたり、心寄せられたりできるかなと思い、去年震災10年目のときに東北3県を訪れてきました。岩手の陸前高田から福島の楢葉町のJヴィレッジ(当時自衛隊の基地になってましたね)まで。2014年に行って以来どうなってるのかな?という興味もあって。そのときいろいろレポートしようと思っていたのですが、複雑な気持ちになりすぎて何も書けずじまいでした。

街や産業などの復興や再構築はすごく頑張ってだいぶ進んでいるように見えますが、その一方津波対策の護岸工事や土地の嵩上げ、数多くある小さな入江の改造工事(ほんとにこれらが必要なのかどうかも含め)はまだまだ途中ですし、原発周りはほぼ景色は変わってないように見えました(以前よりだいぶ範囲は狭まったとはいえ)。

そこで僕は「10年も経ったのに未だこんな状態。一方では東京オリンピックも開催されたりしてるのに東北は忘れられているのか?そして今一度景観をすべて台無しにするような護岸工事は必要なのか考えたほうがいいのでは?」とか声高に言おうと思ってました。でも、新たに形作られた場所にこれからの希望を持って住み始めている人も増えていますし、今までのいろんな経緯を受け入れた上でたくましく生活してる人々がいるということも目にして、そんなことを言うよりは、新たに東北に興味が湧くような好きになるようなことをしたりするほうがいいと思ったのでした。それについてはまたこれから、です。

なので、ただただ昨年の写真を載せておくことだけにします。これらは10年目の東北の震災あとの一部分を記録しただけに過ぎないですが(しかも偏ってる)、自分のためにも残しておきたくて。同じ場所でとった写真については2014年のものもあわせて。

こんな写真ばっかりですが、実際は東北はとてもいいところです。空は広いし、山も海も綺麗だし、空気がおいしいから食べ物はなんでも美味しいし、人々はやさしくてたくましいです。こういう場所を訪れることもですが、普通に旅をしに行って欲しいところです。いいところほんとたくさんありますから。

とにもかくにも今願うのは、震災などの影響をまだまだ受けている方々が少しでもはやく平穏になりますように、です。


四半世紀

20200117

「あの日」から25年が経った。今日2020年1月17日で神戸の震災から25年。すごく長い時間が経ったような気もするし、あっという間のことだったようにも思う。実際たくさんの時間が流れたとは思うけれど、ふとしたことですぐにあの日の感覚が蘇る。あたりを包む不穏な通奏音、空を覆う真っ黒な煙、ヘリの音、救急車のサイレン。。。僕にとって「あの日」という言葉は1995年1月17日のことを指す。

25年ということは今の僕の人生のちょうど真ん中だったわけだ。それまでの25年とあれからの25年。同じ時間だけれど、意味はずいぶん変わってしまった。それまでは明日は永遠にくると思っていたけれど、あの日以降はそんな保証は全くないと思うようになった。

震災のことに関して何かをできるわけじゃないし、やってきたわけじゃない。震災の恐怖や教訓を誰かに伝えるなんてできないし、結果的に何かを失っていない僕はそんな資格はないと思っている。ただただオロオロするだけ。あの時はみんなが優しかった。同じ被災を経験した人同士が痛みと気持ちとモノを分け合った。大して被災してない僕も優しくしてもらった。そうすると誰かにも優しくできた。でもそれはあの苦しい非常時だったからのかも。普段の僕にはそういうことはきっとできない。

そういう意味で、今日という日は震災で被災した全ての人に祈りを、思いを馳せる日であると同時に、明日は何の保証もないのだと認識する日、そして自分の無力さと本当のところは優しい人間でも何でもないということをまた思い出し、そうじゃないようにありたいと自戒する日。「亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう」と歌われるけれど、そんな風にはきっとできない。でも、生きていくのだから、とにかく一生懸命生きていきたい。できることは限られるけど。

自分の人生も半ば。その人生の半分が震災後。世の中も自然も不安なことばかりだけれど、ここで一度原点ゼロに戻ったと思って、気持ち新たに生きていきたい。

いま一度、この震災で被災されたすべての人、ものもの、それらに繋がるすべてにお祈りします。そして生かされていることに感謝します。

2020.1.17

戒め

20180618-1  20180618-2

昨日の朝、大阪北部を震源とする最大震度6弱の地震があった。大阪で震度6弱というのは観測史上初らしい。ぼくのいるあたりでも5強ぐらいは揺れたんじゃないかと思うけれど(4階というのもあるだろう)、揺れが始まった瞬間に飛び起きた。「うわーー」とか意味のない声をあげて、近くの壁にへばりついていた。やっぱりとっさの時にはほとんど何もできない。

それよりも揺れを感じながら、このままこの揺れが大きくなっていって大地震になったらどうしよう、という恐怖が先に立った。幸い揺れは10秒ほどだし、どんどん大きくなるといったことはなかったけれど、昨日一日その地震の恐怖でフラフラだった。

もう23年も経ったのに、阪神大震災のことを全然忘れていない。意識的にはだいぶ忘れているつもりだったけれど、実際ああいう大きな揺れに晒されると体の奥から恐怖が蘇ってきた。実際阪神大震災のあの揺れの瞬間のことを映像のように思い出した。体が覚えている。しかもその後余震があるたびに頭がクラクラし、自分では平気のつもりでも体が震えている。情けないけれどこれが現実で、過去のトラウマは簡単には去ってくれないよう。なのでそれを理解して共存するしかない。

東北や熊本や淡路やらで大きな地震が、昔に比べると頻発するようになってきているけれど、普段の自分の世界にあまり影響してこないと、対岸の火事のように思い込んでしまっている自分がいるということを昨日思い知った。いつ自分の足元で起こってもおかしくない、そんな時代に生きているんだということを、新たに強く認識し直さないといけない。災害に対する準備もだけれど、もっと、普段からの覚悟というか、心構えが。

それは、格好をつけるわけではないけれど、その日一日を一生懸命生きたかどうか、ってことに尽きるんじゃないかと思う。どんなことでもいいから自分が満ち足りたり、誰かが喜んだり、少しでも前進したり、そこまでいかなくとも努力したと思えたり。そういう日々を送ることが一番大事だと、いまは思う。

地震などの自然災害は実際避けることはできない。あるものだ。昨日も揺れが収ってから地震のアラートがきた。結局自分を守るのは普段の自分であり、どうあっても後悔しないよう生きていくことだ。

昨日の地震をうけて、うろたえている自分に対する戒めとして。

2018.6.19 武井

19年

20140117

1995年の阪神・淡路大震災からもう19年。去年の1/17に「18年か」と思ってからもう一年経った。年を追うごとに月日の流れがはやくなっている。さすがに19年もたてばお昼のNHKの全国ニュースのトップニュースにもならないし、震災時刻の報道もNHKとサンテレビだけになってしまった。それだけ時間が経ったということもある(自分の中でも記憶が薄れつつある部分も多い)。もう大学生ぐらいでも知らない人が多いような災害になってしまった。でもこれは仕方ないこと。

思い出というか憶えていることを少し。あのとき僕は灘区の灘駅前に住んでいた。社会人一年目の終わりの頃だった。3連休の最後の月曜日だった前日に姫路で友人の結婚式があり、終電近くまで呑んで、「このまま会社いったろかな」とか思いつつ帰ってきて結構遅くに床についたのだが、5時46分の少し前に海の方からやってくる大きな地鳴りに起こされて「何やろ?」と思ったとたんにドン!という音と共にあの大きな揺れ。ほんとジェットコースターに乗ったかのような感じというか何がなんだか分からないうちに部屋はめちゃめちゃ。這々の体で玄関から出て、壊れかけたマンションのドアを蹴破って(すいません、ちょっと壊してしまった)出て、少し明るくなってきた空のもとで見た街の惨状。地面が割れてたり、裏の家がぺしゃんこになってたり、遥か西の方から煙が行く筋も立ち上っていたり、初めて見る光景だらけだった。近所のおばちゃんが持ち出したラジオで浜村淳さんが「大阪で大きな地震です」としゃべってるのを聴いてようやく「あ、地震なんや」と分かったほど動転していた。

さすがに会社に行くことができなかったのでその週はおやすみになったのだが、じっとしていても仕方ないので、あちこち歩き回った。ほんと三宮はひどかった。17日はまだフラワーロードの柏井ビルは倒れてなかった。あちこちガス臭かった。長田に一時住んでいて、そのあたりは長屋が多いところだったのだが、そこは延焼は免れたものの全部倒壊して(家って倒壊したらただの瓦礫になってしまうということを初めて知る)ぺしゃんこになり遥か遠くの蓮池中学校が見えてるような有様だった。

春前ぐらいかに母親が神戸にきたときに一緒に電車にのった。そのとき長田も通ったのだが車窓の風景を見て母が「空襲のときとそっくり。よう見やんわ」といって目を逸らして涙ぐんでいたのが忘れられない(母は堺で空襲にあい、その後も米軍機の機銃掃射などにも脅かされたそう。コクピットの米兵が見えるほどだっとか。母の生家には焼夷弾の跡があった、六角形の断面なのですぐわかる)。

今朝も神戸の市民のつどいに歌手の森祐理さんが出演して歌っていた。彼女が震災で亡くした弟の渉くんは僕の大学の軽音の後輩(テナー吹きだった)であり、しかも同じ泉陽高の出身。お葬式で彼女に会ったのを懐かしく思い出す。今年も森さんは美しい声で歌っていた。彼女の上にも僕にももう19年の年月が流れたかと思うとたまらない気持ちになった。

多分いくら若い人たちや子供に震災の話をきかせたり映像を見せたりしても、知識として知ることはできても経験にはならない。いくら怖い話をしたって実感できなくて当然だ。残念ながら経験は体験してこそ得られるもの。だから、たぶん遠くない将来にまた同じような災害が起こりうるということを震災を体験した大人はしっかり肝に据え、そのときによりよい対処ができるよう、せめて今日だけは昔のことをじっくり思い起こすようにするべきだと思う。

当時発行された写真集を眺めながら。
震災で亡くなった方、被災した方々に祈りを。