有吉佐和子 – 悪女について

昭和58年の刊行だそう。物語の時代背景が戦後からなので話自体は古く感じるけれど、文章とか書き方はまったく古さを感じない、というか斬新。

この物語で語られる「悪女」こと富小路公子(鈴木君子)はいきなり謎の死を遂げているところからはじまるのもさることながら、物語は27章にも分けて書かれていて、その章ごとに公子と関わりがあった人間一人一人にインタビューをするという形式になっていて、27人の登場人物のキャラが見事に描き分けられているし、読み進むにしたがって、登場人物間の相関関係、関わり方による主人公の見え方、そこから見える主人公の人となり、立ち振る舞い、などなど、長い文章なのにちっとも飽きないし、ミステリーというとちょっと違うけれど、ずっとワクワク感が続くし、実際そんな人物がいたかと錯覚してしまうほど。

なぜ公子が死んでしまったのか、その答えは描かれないのだけれど、ヒントはいくつか。いろんな人が公子のことをいろいろ言うけれど、本人の口から何も語られないので、どれが本当なのかはわからない。でも得てして一人の人間というのは(またとくにここで描かれているような成功を収めた人間)その人に関わった人間の数だけ側面があるものであり、それを極端に表現してみたのかも。

見事としか言いようない。

新潮文庫 1983

有吉佐和子 – 不信のとき

最近ドラマになってたようだけれど、この作品が新聞に連載された後にドラマ化したやつみたいなー。最近のじゃ、きっとこの作品の雰囲気でないもん、絶対。

昭和30年代から40年代ごろが舞台の愛憎劇。さる会社の男とその妻、銀座ホステスであるその愛人、そして男の呑み友達である初老とそのお抱えの小娘。こういう話は昔の方がよくあったんだろうか?

最 後まで読んで、その話のどんでん返し感にもびっくりだけれど、そこまでにいたる男女の思惑、たんにどろどろしたということではないリアルな愛憎、男と女の 見えない駆け引き。やはり女は強し、か?いざとなると腰が据えられるのはやはり女性なのか?ちゅうか女性こわい、と思ってしまう。

しか し作者の男性、女性を問わない心理描写は見事。作者男なんちゃうか?と思ってしまえるほど、男性には主人公もしくは初老の男の言動心理はよくわかるだろう し、また妻、愛人とう女性側の言動心理もなるほど女性ならではのもの。あまりにも両者リアリティがありすぎて、読み進むほどに心苦しくなってしまう。ドキ ドキとはちがって、主人公への心理的圧迫感がそのまま読者にまで伝わってくる。恐ろしい。

結局結論はうやむや、というか、本当のところはどうだったんだろう?男性情けなし。うろたえるまえに己が病院もう一度いって検査したらええやんけ!と何度思ったか。

面白かった。

新潮社 2006

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