柴田トヨ – くじけないで

今年1月に101歳で亡くなられた柴田さんの詩集。実はこの「くじけないで」だけでなく百歳を記念して出版した「百歳」とのセットを入手。どちらもいい装丁(木村美穂)で手に取るだけでじんわりほっとする。いい感じに作るだけでなく、柴田さんのその人柄を現すかのような丁寧な本たち。それだけでうれしい。

日記にも書いたけれど、少し前まではとてもお年を召してデビューした詩人さんがいる、ということぐらいしか知らなかった。が、今年の正月に実家においてあった(母が貸してもらったといっていた)この詩集を手にしたとき、一目でこれはちゃんと入手してじっくり味わいたいな、と思ったほど、その柴田さんの紡ぐことばの、なんともいえない優しさ、暖かさ、朗らかさ、そのようなものに魅せられたのでした。

かんたんな言葉で綴られる彼女の詩は、なんでもないことなのに、どうしてこうもストレートに心に入り込んでくるのでしょう。べつにドラマチックでもないし、ハッパをかけられるわけでもないし、力強いメッセージを訴えかけてくるわけでもない。でも、言外に、行間に、ちょっとした物語や応援歌、人生の機知、ユーモア、悲しみ、いろいろなことが滲みだしている。そしてそれらを母のような微笑みをもって伝えてくれている、そんな気持ちになる。もともと詩を読むというのは不得意なのだけれど、彼女の言葉はすんなり受け止められる。

そして何より伝わってくるのが、そのまるで少女のような初々しさ。長い人生を生きた先輩から贈られた重々しい言葉ではなく、可憐な少女が何気なくつぶやいたちょっとした言葉がものごとの本質を表していた、というような。こんな瑞々しさはいったいどこから来たのだろう。もともとなのか、人生をめぐってまた得られていくものなのか。どうなのかはわからないけれど、百年生きてまたこういう気持ちになれるのなら、なんて人生は素敵なんだろうと希望をもたせてもらえて、とてもうれしい。だから詩集を読んで思うことは「ありがとう」という感謝の気持ち。

なにごとにも真摯に、一生懸命に。それだけで素敵なことであるはず。
柴田さん、ありがとう。

柴田トヨさん

日曜日に訃報をきく。101歳だったそう。

先日実家に帰ったときに柴田さんの詩集「くじけないで」がおいてあり、母に「どうしたの?」と聞くと、知人からもらった(借りた、だったか)そうで、何気なくめくってみたページに綴られていた暖かなことばたちに「これはぜひともじっくり読んでみたい」とその帰り道に本屋さんによったのがほんの2週間ほど前。まだその「くじけないで」も読み終わらないうちに知らされた他界の知らせに「ああ」としずかに納得し、彼女がその生涯の最後までわたしたちに生きる勇気を与えてくれたことに感謝しました。

柴田さんを知ったのはそう前でもないのだけれど、たしか新聞か何かだったかと思う。その「くじけないで」という詩集を出されたときの記事かなにかだったと思うのだけれど、「98歳になってね、へー」というぐらいしか思っていなかったのだけれど、そのときすぐにその詩集を手にしなかったのがほんとに悔やまれる。シンプルな言葉で綴られる詩たちはどれも素直に心に響く。やさしく、時には厳しく叱咤するように、寄り添うように・・・生きていくことを、人生のすばらしさを教えてくれる。人生の達人、といったらいいのか、柴田から流れでてくることばの数々は重々しいことであっても苦しくなく澄んでいて、懐かしい匂いや音、景色、いろんなことが目に心に浮かんでくる。あまりにもやさしく、うれしく、さみしくなるので一日に1編くらいしか読めない。

こんな方に一度くらい会って話してみたかったとは思うけれど、それはもう無理になってしまった。けれど彼女の残したことばがあるかぎり、いつでも出会えると思えたら、それでいいよね。

柴田さん、本当におつかれさまでした。安らかに。そしてこれからも(ちょっと)お世話になります。

 

最後にひとつ、とても気に入っている詩を転記します。

 

「風呂場にて」

風呂場に
初日が射し込み
窓辺の水滴が
まぶしく光る朝
六十二歳の倅に
朽ち木のような体を
洗ってもらう

ヘルパーさんより
上手くはないけれど
私は うっとり
目をつぶる

年の始めのためしとて−−−
背後で 口遊む(くちずさむ)歌が聞こえる
それは昔 私が
お前にうたってあげた歌

柴田トヨ「くじけないで」より