桂米朝 – 落語と私

rakugo

先日テレビで今年亡くなった桂米朝さんの追悼のための舞台「地獄八景亡者戯」を見た。主人公をざこばが、閻魔様を南光がやっててそれはそれで面白かったのだけれど、その舞台の最後のシーンで米朝さんの写真に重ねてある文章が掲げられたのだけれど、それがあまりにも「うーん」と唸る内容だったので、その文章が記されているという本書を手に取った次第。

あちこちに書かれているようにこの本は落語初心者(もしかすると中高生とか)向けに米朝さんが書いた解説本(入門書)で、落語の歴史から、上方と江戸の違い、ネタの話、落語家の所作振る舞いの話などなど、落語をこれから知ってみたいという人に最初の知識を与えるという意味では、とってもよくできた本。おかげでなんとなく敷居の高い感じがする落語の世界も、また違った見え方をするような気がするし、ほんとこれから寄席に足を運びたいと思わせてくれる本だった。

で、その感銘を受けた文章は、一番最後に記されていて、米朝さんが師である米団治から言われた言葉だそう。そのまま引用すると、

『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで。』

まったくほんとその通りで、これほど的確に明確に書かれてしまうと、ぐぅの音もでないし、姿勢を正していまの自分を見つめ直さされてしまう。これは落語の世界だけじゃなく、いわゆる芸を扱う人間にとってはまさに至言。”むさぼってはいかん”ってなんてその通りなのか。芸がよければすべて良しというわけではなく、人間もできていかないと、やはり芸もできないのだ、ということか。そして、一番畏れることであるけれど、文末の言葉は、ほんと、覚悟かと。そうでなければ貫けないかと。何度読んでもうーんと唸るばかり。

ほか、米朝さんの言葉でなるほどなと思わされたのは、寄席のハコの大きさによって音響をつかうか否かというような話題の中ででてきた、

『マイクロホンを通した時、声は音になります。』

という言葉。これは音色が変わってうんぬんっていう意味ではなくて、生声でやってるなら効果がでるようなちょっとした所作の雑音や聞こえるか聞こえないかのような捨て台詞などが台無しになる場合がある、ということ。また聞き手のためとおもって音を大きくすることが決していいことではなく、使ったとしても必要最小限であるべき、ということ。その後に書いてあるように「(前略)すべて話というものは、聞こうとつとめないと聞こえないという、つまりすこし低い(小さい)ぐらいの時は、かえって身を乗り出して聞き手は集中してくるものです」というのは音楽でもまったく同じことだなと思える。

まじめに落語一筋に貫いてきた人だからこそ、上方、そして落語界を憂う感じがひしひしと伝わってきて、なんとなく興味あるなーと思っている落語に拍車をかけてくれた本だった。

文集文庫 1986

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