ついに3巻。あれほど静かに仲良く惹かれあっていた雫石と真一郎。真一郎の離婚が成立し、2人で暮らし始めようということになって家を探したりするのだが、なにか心の奥に引っかかりを覚える雫石。それがなにかとは考えないようにしていた。ある日、真一郎の親友でありあこがれの人物であった同級生の高橋くん(彼の影響で真一郎は植物の道へ進んだ)が作ったという庭園を見に行く。言葉に出来ないその見事さ。自然と人工の完璧なまでの調和。そしてそれを守る高橋くんの母・・・彼女は真一郎がかつてあこがれた人だった・・・。
生きていくのにはあることを満たすためにいろいろ我慢したり、調和をとるために目を瞑ったり、そんなこともたくさんある。そうして生きていく人が大半かもしれない。でも雫石はそうではなく、ぶつかったり、泣いたり、大切なものをなくしてしまってさえ、まっすぐおのれが信じる生き方をすることも、また生き方なのだということを発見(経験)し、それを読者に伝える。不器用で世間からはずれていることが、客観的におかしく見えたとしても、そうせずにいられないひともいるし、そんな生き方は、憧れすら憶える。
雫石の場合、そんな生き方を支えてくれるのは、おばあちゃんであり、彼女から学んだたくさんのことであり、山を降りて見つけた、同様にでこぼこした、世間からはずれてしまった人たち。いったい現実に我々はそんなものを持ちえるのか?持っているけれど気づかないのか、気づけないのか、見ないようにしているのか。まっすぐ生きていくためには、現実社会のたくさんのこととぶつかることが最初から分かっているから、ある程度目を伏せて、障害を避けながら暮らしていくのが普通だろう。でもこのお話を読んで、少しは気づくことがあるはず、何か自分を曲げていること、もっとまっすぐに生きたいのに周りの都合に合わせている自分、我慢していること、まぁこれぐらいならいいかと妥協しているさまざまなこと。それらをまったく気にしない/無視していると、きっと支障をきたしてしまう、それが今の世の中の病巣のひとつ。ストレスになるかもしれないけれど、それらを見つめ考えるのが第一歩なのかもしれない。
誰にでもきっと何もかも忘れてほっとすること/瞬間があるとおもう。世間のすべてのつながりから解き放たれ、自分よりもはるか昔から存在する自然と対峙したときに、大いなるものに包まれたときに、まっすぐ正直につくられたものにであったときに。そのときに大事に思えるものこそ大事にしたい。内なる自分のちいさな声が訴えることに耳をすませば、それは何かわかる。それで世の中とぶつかることがあるかもしれない。でもその大事なことを曲げて暮らすのは、どうだろうか、苦しくないだろうか。
このお話のようにかけがえのない人たちと出会い、かけがえのないことに気づき、守られ、世間というおおきなシステムのなかで、自分の形を変えずに泳いでいくということをできるひとなんて、ほんの一部だと思う。けれど、そうしたいと思うこと、それについて考え悩むことも大事なんだ、てことを教えてくれた気がする。3冊つづけて、物語は進むけれど、最初からよしもとさんが訴えたかったことは変わらず、深く、横たわっているようにおもう。
新潮文庫 2010