図書館戦争シリーズ3作目。ほんと面白い(というか有川さんが好き)なので一気読みしてしまう。普通シリーズものでもちょっと間を置いて頭冷やしてから読んだ方が新鮮味あってよかったりするのだけれど、このシリーズ、止まらない。。。w
今回も5つのエピソード。図書館で多発する痴漢事件を取り締まる「王子様、卒業」。郁と同期たちの昇任試験の苦労話「昇任試験、来たる」、人気俳優のインタビュー記事から発覚する自主規制/検閲の問題「ねじれたコトバ」、郁の地元茨城で開催された美術展の最優秀作をめぐる攻防「里帰り、勃発」、そしてその茨城の攻防当日の模様、そしてその攻防のもともとの原因となった地方の図書隊管理の問題責任について「図書館は誰がために」。かわいらしいエピソードから、このお話のキャラクターたちがもっとはっきりいきいきするお話。そしていわゆる「日野の悪夢」にも近い茨城での攻防・・・。有川さんの想像力の翼はとどまるところを知らないのか、すごいな。前作で登場した郁の同僚・手塚光の兄・慧と彼率いる「未来企画」が図書館界に結構影響をおよぼす存在になってくるし、どういうラストを迎えるのか、楽しみでならない。
ま、話の面白さはさておき、この巻のメインは前作の巻末で手塚兄の手紙のおかげ(?)で郁が憧れていた”王子様”が正に上司である堂上であることが発覚して、とくに郁の行動や思いがぎくしゃくしたりするところかな。おもしろいもん。女子っぽくて。女性じゃなく、女子(笑)。
でもこの巻でいちばんひっかかるというか、ああ、と思ったのは、3話目の言葉をめぐる問題について。僕もそうだけれど本をはじめとしてたくさんのメディアに囲まれて日々暮らしていると、その膨大さも原因のひとつかもしれないけれど、知らないうちに言葉/表現を制約(選別?)されていることには気づかない。いまの社会では一応自主規制という形で各メディアが指針を決めて使う言葉を選んでいるのだけれど、この本の世界のように(でも、そんな遠い世界の話には思えない)違法とわかりながらも検閲が存在するような世の中では、一般市民が普通に使っている言葉でさえ、誰かの横やり(その大半が悪意のない親切心からによるものである、というあたりがまた恐ろしい)によって禁止される言葉となってしまう。
この3話目では”床屋”という言葉が問題になっている(実際に床屋は放送禁止用語にリストアップされているみたい。というか●●屋という表現自体が差別的表現だという理由により – その理由も”特定の日に金銭の授受が行なわれる商慣習を持つ商いでなかったことから、軽蔑を込めて用いられる”だからだそう。そんなに月清算とかできる職業が偉いのか?)。エピソードの主人公である人気俳優が愛情を込めて使った”床屋”という言葉が検閲に引っかかるため、それを”理容店”や”理髪店”等の言葉に直さなければならない、という問題だった。本人は祖父が生業とし、自分を育ててくれた”床屋”という職業(しかも祖父は自分自身をそう呼ぶ)に愛情と尊敬を抱いているのに、つまらない、誰のためだかわからない検閲/規制によって使えず、傷つく。一体言葉を正しく用いているのは誰なのか?
どんな言葉でも使い方、使うタイミング/シーンによって適切/不適切はあるだろう。たとえ昔からあった慣習だからといってそれは時とともに変化していくし、大多数の人に当てはまったとしてもそれは全員ではない。使う側、使われる側がお互い理解し合ってやりとりされる言葉に関して、どうして彼らと関係ない第三者が「よくない慣習だから」「差別用語として使われるから」という大義名分でさばくことができようか?
社会的に中立(公正というほうが適当か)であらなければならないメディアにおいては(といいつつ中立・公正なメディアなんて今はないように見える)、不特定多数の人を相手にするため、放送禁止用語のようなものを規定するのはやむを得ない部分もあるのは分かる。教育の現場でも同じかも知れない。でも、そうやって大きな影響力をもつものたちが強制的に言葉を伏せる(狩る、とも言われてる)ことにより、その言葉自体の存在がなかったことにされる、ということ自体が危険であるような気がしてならない。それは言葉だけではなく、社会一般通念的なことでも同じかも。簡単に言えば「危ないものには蓋をしてしまう」。例えば、溺れる危険があるから池を立ち入り禁止にする、だから近づいてはいけない。それはその通りなのだが、そうしてしまうとなぜ池が危険なのか、どうしたら溺れてしまうのか、溺れるということはどう危険なことなのか、という知っておくべきことさえも知りえないことになってしまう。なんでもかんでも禁止してしまえば波風は立たなくていいのかもしれないが、どうして波風が立つのか?危ないことはどこにあるのか?どう危ないのか?ということまで蓋をしてしまうことは、非常に危険なことだと思うのだが。
話がそれたけれど、その放送禁止用語にもなっている”床屋”という言葉を、では著作の上で使うというのはどうなのだろうか?上記的解釈であるとNGのはずだが、表現の自由という面から、そして著者が意図して使う場合においてはどうなのだろうか?そんな問いかけを有川さんにされているような気がする。お話の上でも、今の社会においてもNGの言葉をお話の上とはいえこの社会に”字という媒体”で見せてくるこの見せ方。有川さんすごいなぁと思う。あとがきの対談でもそんな話(見えない規制)になったりしているけれど、勇気をもって(そして出版元の理解)こう突き進んでいく有川さんに尊敬の念を抱かずにはいられない。
相変わらずおまけの児玉清氏との対談は深い。おまけは「ドッグ・ラン」
角川文庫 2011