(長文駄文です。つづきです。前のはこちら)
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残念なことに天気は雨でした。この日も北上するつもりだったのですが、天気予報によると岩手県は全面的に雪。一応備えはもってきてあるのですが、雪道となると極端に行動力が制限されるし、下手をすると突然の大雪により閉じ込められる可能性があるわけで、どうしようか悩みどころだったのですが、山間部はともかく沿岸部は雪には強いだろうという予想のもと、駄目になりそうだったら引き返すと決めて、出発しました。
ところが予想に反して天気はずっと雨のままでした。しかも北国は道路も積雪や凍結の対策もしてあるので、少し安心です。まずは震災当日の火事の様子が印象に残っている気仙沼港へ。建物が建っていたであろうところはまだ更地や更地前の場所も多かったですが、逆に既に建て変わったもの(海鮮市場とか)や建設中のものもいくつかあり、船も結構着岸できるようになってるようでした。が、港の一番奥の部分は建物が流されたまますべて空き地になっているような状態でした(その一角にヴァンガードがある)。
そのまま北上しまずは陸前高田を目指したのですが、宿を出るときにたまたま手に取った唐桑半島にある「津波体験館」という施設のパンフレットが気になったので、一度逸れて唐桑半島の先にある施設へ。水曜日でしかも雨ということで、見学者は僕だけ。なのでゆっくり見せてもらいました。もともとからあるビジターセンターの常設展示はこの唐桑半島に関するものだったのですが、いまは半分ほどが震災の写真になっていました。ちょうど今朝いた気仙沼市街地の写真がたくさんあったので、先ほど見た景色(もう片付いた状態)と当時の状態を照らし合わせながら見ていると、館員のおばさまが話しかけてくださり(近所の方だそう)、写真をいろいろ説明してくれました。神戸のときもそうでしたが、実際に体験した人から聞く話はほんとリアルです。
で、その目的としていった津波体験館ですが、、、、怖かった!(地震とか、恐怖がまだまだ体から抜けないです)
その後ついでに同じ半島内にある名勝 折石を見に行ってから半島を出て北上し、陸前高田へ向かいました。昨日は気づかなかったのですが、今日はあちこちの丘が拓かれていたり、削られていました。木材を確保するというよりは、高台に新しく住居地をつくるためか、埋め立てのために(低い土地はかさ上げすることになってるらしい)土を運ぶためのように見えました。
そして陸前高田。たまたままた道を間違って(ナビはないので、地図と目でみて走ってるのです。が、こうやって間違うことにより思わぬものに出会えることが多いです)しまったのですが、たまたま地図を確認しようと停まったところに諏訪神社がありました。津波のときに近所の人が逃げた場所です。高台への階段の途中も流されて仮設になっていましたが、その流された部分のさらに上(ビルだと5階ぐらいに感じた)のところに東日本大震災時の最高水位が記されていました。こんな高さまで海面がくるとは、全く想像できないです。そしてここから眺める陸前高田の平野。こんな広い土地がすべて流されたとは、、、想像を絶します。
そしてそのまままた北上し、ほどなく大船渡へ。ちょうどお昼になったのでふと見つけた「まんぼう亭」というお店でお昼ご飯。三陸めかぶ三色丼、めちゃ美味しかったです。この辺りは高台なので何も感じませんでしたが、港に降りるとやはり同じ光景。ここは防波堤の設置などが始まっていました。まだ水門など壊れたままの施設もありましたが。
ここからはR45とそのバイパスを使いながらどんどん北上。小さい入り江がつづくのですがどこも同じような状態。入り江は更地で護岸工事や土地の掘り返しなど。丘の部分は削られていたり、工事作業用の資材置き場や事務所になっていたり(ちょうどいまとぎれとぎれになっているバイパスは三陸自動車道となるようで、その工事もあるのかも)していました。釜石を越えていくころになると、どこも似たような景色でどこがどこだかわからなってくると同時に、気温が下がってきたのか雪こそふらないけれど海上も山の上も濃い霧(か、もや)がかかってきて視界は悪くなってきました。宮古市が近づくとJR山田線と並走していくのですが、線路がまったく使われていない状態だったのが寂しかったです。
で、ついに宮古到着!距離的にはそんな走ってないのですが、この時点で既に15:30頃。ここまできてさてどうするか?と考え、実はNHK朝ドラマ「あまちゃん」の舞台となった久慈にはあと80キロぐらいで是非行きたいとおもったのですが、着いた頃には暗くなっているだろうことと、久慈からはどこに出るにも遠い(最終的に今日は仙台に戻っておきたかった)ので泣く泣くあきらめて、せめての土産(?)にJR宮古駅と(そのドラマで出てくる北鉄のモデルとなった)三陸鉄道北リアス線を眺めてから、宮古を後にして盛岡に向かいました。
ここも知らずにいったので、結果的オーライでよかったのですが、宮古〜盛岡を結ぶ106号線はすごく高地を走っているため、雪がふったり、日没を迎えるとぐっと気温が下がって凍結の恐れがある道だったのですが、幸いにも両方とも見舞われることなく盛岡までいけました。だいぶ日が傾いてから走ってたのでよくわかりませんでしたが、この雪の時期の晴れの日にここを通ると景色綺麗で気持ち良さそうです。
そして夜の盛岡に到着。初めて来たのですがその大都会ぶりにびっくり。しかも北のほうなのに仙台より雪がない。だいぶ疲れたのもあってどこかで一休みとおもって調べてみると、駅からほど近い開運橋のたもとに「ジョニー」というジャズカフェがあるのが分かったので、早速そこに。昨日と同じパターン(笑)。実は陸前高田に同じジョニーと言う姉妹店があるのですが、そちらには寄れなかったので、ちょうどよかったです。
コーヒーのんでくつろいでいると、ママさんが話しかけてくださり、そっからマスター(つまりジョニーさん)ともいろいろ話を。ママとは彼らが大好きな秋吉敏子氏の話や一関のベイシーのマスター菅原さんの話などなど。えらく盛り上がってすっかり長居してしまった。めちゃ楽しかったです、ありがとうございました > マスター&ママ。そして腹も減ったので盛岡名物 冷麺を食べて仙台へ戻ったのでした。
[3/6]
昨夜は寝るのが少し遅かったので、起きてからもしばらくぼーっとしていたのですが、今日はこの旅路のクライマックスかもしれないので頑張っておきて朝ご飯を食べ、まずはおととい連絡とれなかった叔父に連絡。調べてみるとすぐ近所だったので早速会いに行く。叔父そしていとことはもう15年以上ぶり。叔母とは父の葬儀のとき以来。飼い犬のシーズーのチャッピーを囲んでとりとめもない話を。なんだか懐かしい雰囲気だった。堺に住んでいた頃はこういうことよくあったのになぁ。最後にお祈りをしてもらい(牧師一家である)出発しました。
今日は逆に一路南下、目指すは福島の南相馬。津波だけではなくて原発の被害もちょっと見てみたかったのです。
仙台を抜けて 名取市を通り、亘理町に入った辺からR6を離れて海沿いの県道へ。ちょうど津波が押し寄せた部分の真ん中ぐらいを通る道だったようで、周りは瓦礫こそないものの、すべてそのままの状態。長くゆるやかにまっすぐつづく海岸線は高い防波堤があちこちで造られている途中でした。ほったらかしになっている更地は乾いて砂埃が立ち、日本ではない他所の国を見ているようでした。
その道は県境で終わりだったのでまたR6にもどって福島県相馬市へ。途中でおいしい蕎麦を頂いて、やがて南相馬市へ。相馬もここ南相馬も沿岸部は津波に押し流されているのがありありとわかる感じでしたが(大半が田畑のようでした)、南相馬のあるところから突然様相が変わりました。そこまでは今まで見てきたのと同様、更地になっているか、その作業をしているところだったのですが、その南相馬の途中からはほぼ震災の時のままで、壊れた建物も流されたものものもそのままのように見えました。するとほどなく浪江町に。そう、さっきの南相馬の途中からは居住制限地区や避難指示解除準備地区で、人がいられない地域だったようです。
そしてその浪江町は様相が一変してゲートと出入りをチェックする警備員、そして出入りできる車両だけが行き来できる地域でした。あまりの様子の変わり用に僕も軽くパニックというかどうしたらいいか分からないような状態になり、結局はそのR6も双葉町の手前までしか行けず、右にも左にもいけないために(国が決めた規制以外に、浪江町自体が自治体として立ち入りを制限している)向こうに行くにも、郡山の方へ抜けるにしても、浪江町を通らないルートを通らねばならないので、だいぶ後戻りさせられ、結局飯館村、川俣町を抜けて福島市にたどり着きました。本当は浪江町をぐるっとまわって南側からできれば福島第一原発を眺めたかったのですが、峠道ばかりだし、もう夕刻になってきていたのであきらめざるを得なかったです。
しかし、その浪江町自体や南相馬、飯館村の制限されている地域にすごく異質な感じをうけました。一見するとすごく普通のまま(地震で壊れた建物もほとんどないし、除染のためか畑なども綺麗に更地になっている)なのですが、人が誰一人いない。例えば過疎で廃村になったようなところだったらもっと街自体が荒れてたりするのでさほど不思議な感じはしないのですが、通った場所はどこも綺麗なのに人がいない、すごく変な印象でした。この印象が人がいないということだけではなく、一体なぜなのかずっと考えながら車を走らせました。
福島市についたとき実は相当へとへとになっていました(考えすぎたか?w)。今日もいい店があったらクールダウンするために入れたらなーと考えていたのですが、見つけたお店はまだ開店前。時間をつぶしてからとも考えましたが、明日には帰宅しておきたかったので(しかも天気が悪くなりそうな感じだった)、その足で出発することにしました。往路のようにちょっと休んでから夜中に出るというのもだいぶ考えましたが、万が一大雪にでもなって出発できなくなったら(案の定えらく雪が降る夜になった)困りものなので、さっさと出発。福島西から東北道に乗り、いきなり雪に見まわれ、往路と同様磐越道は規制されていたので同じルートで帰ろうかと思っていたら、長野道の一部も規制がかかったため(北関東道を通ってるときに分かった)、関越道で鶴ヶ島まで戻り、さらに圏央道で八王子まで出て(なにがうれしくて東京都までいかねばならないのやら)、そこから中央道で帰るルートになりました。
でも昼前からずっと走ってるわけですからかなりくたびれていて、山梨や諏訪湖辺り、そして小牧あたりで仮眠をして(どこも寒かった。でも車に毛布を積んでいたので助かった)結局は3/7のお昼に帰宅したのでした。あー、長かった。でも意外と疲れてなかったです。
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とりとめなくざーっと4日分のあらましを書きました。結局4日半、走行距離は(あまり頼りにならないメーターによると)2,900キロ余りでした。我ながらよく走ったなー(そして車も!)と思います。
津波で被災した地区はまた機会があれば訪れられたらと思いますが、原発の被害にあったところにはもう一度行きたいです。まだこれを書いてる時点でももやもやするこの気持ちをもっとはっきりさせたいです。
あらましはここまでにしますが、津波とか原発被害について思うことをまだつづけて書きたいと思います。
(つづく)