思い起こしてみると、僕は20代最初のころ、とてもラッキーだった。今ではそんなことなかなかないだろうけれど、ただの学生でロクに演奏もできなかった僕なのに、大人たちからいろんなバンドに誘ってもらった。そしてそれらが今の僕の土台を築いたといっても言い過ぎじゃない。モダンチョキチョキズやE.D.F.、Wooden Pipeなどなど。
中林憲昭が率いていたWooden Pipeは、前身のPipe、そしてそれがもっと進化したElectric Pipeという80年代から話題になっていたロックバンドを、一転アコースティックなサウンドに変化させたバンドだった。でも単にロックの曲をアコースティックな楽器でやりました的なものではなく、当時はまだ誰もやってなかったような音で、ジャズやクラシック、様々な民族音楽を吸収/融合させて、自由奔放ですごく尖っていて、でも間違いなくこれはロックだ、というようなバンドだった。当時在籍していた塩谷さん(僕が尊敬してやまないsax奏者)から「武井くん、やってみない」といわれてバトンタッチすることになったのだが、ロックバンドなんかでやったことすらなかったけど、生意気だったあの頃は大人の仲間入りできたようでうれしかったし、芳垣さん(perc)や島田さん(Key)、教秀さん(Bass)がいて顔見知りだったのもあってちょっと心安かったのもあった。他は国次さん(Gt)、梅本さん(Dr)、たぶんコーラスには修造さんも来てたはずだし、PAはヒカリン(沢村さん)で、いまもずーっとつながりのある一世代上の人たちがメンバーだった。
作詞作曲とボーカルの中林さんはとにかくめちゃくちゃ格好良かった。大人だった。ロッカーだった。その音楽も、狂気さも、怖さも、すべてが圧倒的で、自分とは違う世界に住む憧れの人という感じだった。今では少し見え方が変わったので、印象が違ってるけれど、でも当時のあのインパクトはまだ記憶に染み付いている。初めて見た江坂ブーミンホールでのライブは強烈だった。
その後リハやらライブやらいろいろやったはずなのだけれど、なぜかバンドのことは全然憶えていない。そのころのことでひとつ思い出すのは、中林さんの紹介で、彼とずっと親交のある写真家のハービー山口氏がアメ村のBIG CAT(当時はコークステップホールという名前だったか)で開いた個展に出演させてもらったことだ。「NYの街角で吹いているsax奏者のように、たまにふらっとやってきて吹いてほしい」といわれ、個展の間、その写真に囲まれてひとりで佇んで演奏した。きっとかなり拙い演奏だし、もしかしたら間が抜けているような姿だったはずなのに、ハービーさんが撮ってくれた写真はすごく格好良く撮れている。それが掲載された雑誌は今でも大事に取ってある。
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就職をきっかけにWooden Pipeも含めほとんどのバンドは辞めてしまったのだけれど、だいぶ経ってまたミュージシャンとなって戻ってきた僕にある日中林さんは連絡をくれ、「レコーディング手伝ってくれへんか」と言われて行って録ったのが、彼の2作目のアルバム「I was here」の中の曲だった。懐かしい感じがした。僕を憶えてくれていて(そのときもまだロクに吹けないのに)すごく嬉しかった。そしてそこからまた中林さんとはライブをしたり、呑みに連れて行ってもらったり、遊びにいったり、東京でのライブに来てくれたり、密ではないけど濃い付き合いが始まった。なんかよく可愛がってくれた、だいぶ年下の弟って感じだったんかな。
そして3作目の「無用 – no need -」のレコーディングをして、そのレコ発を東京と大阪でやるということになり、さあいよいよリハーサルに入ろうかというとき、彼は倒れた。2008年のことだった。なんとか一命は取り留めたれど、彼は歌うことができなくなってしまった。何が何かわからなかった。大酒呑んでひっくり返ろうが、むちゃくちゃな喧嘩しようが、いつも次になったら「おう」とかいって、ちょっと悪いことして叱られた子供のようにはにかんで姿を見せるはずなのに、今回はそんなふうにはならなかった。あのときメンバーに郵送するはずだった譜面は封筒に入ってそのままになってる。どうしたらいい?
まだ入院してすぐの頃は顔を出してたのだけれど、重篤な状態は去り、リハビリとかするようになってからは、体の自由が利かなくなって、障害までをも負ってしまった彼に会いに行くのがつらくて、なかなか行けなかった。こういうときどんな顔したらいいのかいつも分からなくなる。でも、会いに行くと、誇らしげにリハビリの様子を語ってくれることもあれば、ひどく落ち込んで自分を皮肉るときもあった。そして僕は内心、リハビリがまあまあうまく行ったとしても、もう二度とあの輝く姿を、しびれる歌声を聴くことは叶わないんだろうな、と思っていた。
けれど、長期間にわたる地味で驚異的な中林さんの努力(と、ふっこさんの超人的な献身)によって、動かなかった手が動き、杖を使いながらも立って歩き、出なかった声がでるようになって、昨年彼はステージに復帰することになり、ある日そのためのリハーサルを小さなスタジオでやった。多少かすれているとはいえ懐かしい大好きなあの声と、気品ある英語を聴いたとき、涙が出た。「ああ、帰ってきた。ほんまよかった」。この人とまた一緒にできることを、こんなに待っていたという自分に驚いた。20年くらい前の気持ちが蘇ってきた。どうあろうと、中林憲昭は中林憲昭であった、と。
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その夏のコンサートのあともクリスマス時期にライブをやって、また今年2014年も夏にコンサートをやろうという話だったのだけれど、結局それは叶わないことになってしまった。今年に入ってそんな調子はよくないものの電話ではよくしゃべってたし、メールも頻繁にきてたので、そう心配してなかったのだけれど、5月前ぐらいから心配な状態になってきて。。。。先週電話でいろいろしゃべったとこなのに。前の晩なんか夢にでてきて「中林さんに会いに行かんと」と思って会いに行った6/21の深夜に還らぬ人となってしまった。間に合ったけど、、、、間に合った、って?
あまりのタイミングの良さ(悪さ?)に涙もでない。声も出ない。ただ手にすがって点滅する0の数字を眺めていただけ。家に帰って、アルバム聴きながら中林さんと乾杯して、ちょっと泣いた。
中林さんがいなくなった、とは、これを書いてるいまも実感がない。お通夜やお葬式(音楽葬もみんなでできてよかった。中林さん約束守ったから!)で棺桶に収まる彼をみても、それは彼の姿ではない気がした。彼は消えてしまった。でも彼の音楽を聴くと、眼に心に存在としての彼を感じることができる。肉体の枷をはずされて、より自由になってぼくらの心や周りに宿っている、そんな気がする。
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音楽が素晴らしいものであるということ。自分を貫き通すためには自分を曝け出すことを厭わぬということ。カッコつけるのではなく格好よくありつづけるのだということ。気高い精神と脆い心、音楽への尽きることのない情熱と才能、大人の狂気と子供のような無邪気さ、呑気な陽気さとその影にちらつく大きく深い哀しみ。簡単にいえばメチャクチャだったけれど、中林さんは僕にとって最初に現れた本物のロッカーでスターで憧れの大人で、だめな兄貴のような人だった。僕は中林さんが大好きだった。
とりあえずしばらくは会えないけれど、そっちにいる奴らとまたバンドでもやっていて欲しい。またそのうち会いに行けるから。
中林さん、ほんとありがとう。おつかれさま。よく休んでくださいな。
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P.S.
中林さんが遺した音楽をより多くの人に知ってもらいたいです。エンジニアの沢村さんが貴重な音源をいくつかUPしてくれてるので、シェアします。まだほかにもありますし、これからも増えて行くと思います。
中林憲昭Woodin PIPE スタジオ録音
塩谷さんのソプラノ、いいなぁ。
中林憲昭ThinkPink 1st アルバム colurs of my dreams より。2014年ミックス
大好きな曲。これもソプラノ塩谷さん、素晴らしいなぁ。
中林憲昭ThinkPink 2nd アルバム I Was Here より。2014年リマスター
京都カフェ「Table &sofa」で収録されたセッションから。大好きな曲、Tiff
同じ収録から。Elegy
発売されているアルバム
colours of my dream think pink! |
I Was Here Think Pink Syndicate |
NO NEED 無用 Think Pink Syndicate |