ベーシストのぺっぺいさんが亡くなった。歳も近くて長く一緒にいろいろやってきた音楽仲間(といっても先輩だけれど)が居なくなるのはとてもショックだし、淋しく悲しい。昨日葬儀に参列させてもらったけれど、その時から胸の真ん中にぽっかり空いた穴がどんどん大きくなっていってる。
昔のこと、あんまりはっきり思い出せないけれど、2000年に伝説のナニワのサルサバンド Sabrosura Del Sonido に参加した(同じテナーの服部義満くんが抜けることになり)とき、そこでベースを弾いていたぺっぺいさんに初めて出会ったような記憶がある。初めてこのバンドのリハに行った時、サルサのリズムか全く理解できずにちっとも譜面を吹けず苦い思いしたの今でも覚えてる。当時まだまだサルサブームだったのでこのバンドでほんとたくさんのライブやイベント出演をした。キューバも行ったし、九州や沖縄も、毎度強行軍の東京も。一旦解散後ぺっぺいさんをリーダにPANDEMIKというバンドで活動を続けた。(実は最近サブロスのレコーディングしたままお蔵入りになってた音源が発掘された)いつぞや東京が大雪に見舞われた日、仮眠してた御殿場SAから誰も走ってない真っ白な東名をそろりそろりと10時間くらいかけて池袋行ったの、怖かったけど今となっては楽しい思い出。
ぺっぺいさんには出会って程なくしてボーカリストの見原ようこさんのレコーディングに誘ってもらい、その後ずっと見原さんのバンドに参加することになる。見原さんのバンドでもあちこちいったり音源作りしたり、たくさん一緒に演奏したな。恒例の春秋のライブも毎回楽しかったし、靱公園のショビシュバでほんとたくさん泣き笑いした。ここで演奏してるときのぺっぺいさんってほんと家にいるようにリラックスしてたように見えてた。
さらにぺっぺいさんには1998年ごろからTp房原くんらと組んでた USH(United Soul Horns)に参加してもらった。USHはホーンセクション主体のソウル/ファンクのバンド(結成当初は房原Tp、峰崎芳樹Tp、平石勝俊Tb、服部As、武井Tsだったが、最終的に房原、武井、堂地誠人As)で、数多くのライブをやったし、ライブではいちいちへんな出し物したし、なんせよく飲んだ。毎回のようにミナミの味穂にいってたw よくあんなめちゃくちゃなバンドに根気よく付き合ってくれたなあと今思い返して苦笑いしてしまう。沖縄や宮古にもいったなあ。リハ>ライブ>呑み>沈没>海>リハ>ライブ>呑み>沈没、の連続で楽しかった。
この10年ほどは見原さんのバンドや、Tb Tommyさんらとのロスロン毛ロス&シルヴィア、高知のKey埜々下さんのバンド、ナニワフレーヴォオーケストラなんかで一緒に演奏してきてた。最後にあったのは昨年5月。SNSでいつも琵琶湖の映像上げてはるの見たり、なんやかんやと連絡したりしてたので、そんなに会ってなかったとは思っていなかったけれど。
音楽業界的にもバンド仲間としても先輩なのだけれど、いつも穏やかに優しくフランクに接してくれて、面白いことにはすごく積極的に、アホなことにもとことん付き合ってくれるけれど、肝心なところになると「たけいくん、それは違うと思うで」としっかり釘を刺してくれる、本当に大切な先輩で、仲間で、友人だった。僕たちがいくらハメを外しても、それを嬉しそうに眺めながら後ろでしっかりバンドのボトムを支えてくれる素晴らしいベーシストだった。ギターの弾き語りも素敵で、ぺっぺいさんの曲も歌詞も大好きだった。ほんと頼りになる兄のような存在だった。
そんな人と、こんな早くに別れがくるなんて!
人の人生は、記憶によってできているんじゃないかなと思う。それは自分の記憶だけじゃなくて、関わる誰かの中の記憶によっても。僕が誰かと知り合い、誰かが僕と知り合い、そこから関わる時間の中で、記憶が、思い出が降り積もっていく。だから顔を合わせた時に昔話で笑ったりできる。そんなたくさんの関わりの集大成で僕の人生はできていると思う。
でもその誰かが居なくなると、この先続いたであろう関わりだけじゃなく、彼(彼女)が持っていた僕の記憶や思い出も失われてしまう。それは、僕の人生のどこかの部分が失われるということなんじゃないだろうか。。。。やがて誰も憶えてなくなったら僕やその誰かは本当にいなくなってしまう。。。ぺっぺいさんの不在を受け入れていくにつれて、そんな思いが強くなっていってる。それが、この胸の穴なのかな。
僕はいつまでも忘れないです、ぺっぺいさん。あなたと演奏した音楽、一緒に過ごした時間の数々を。それはどれもとてもとても大切な思い出であり経験です。本当にたくさんたくさんありがとうございました。安らかにありますよう。
また会いましょう。
人からもらった写真とかも混ざっているけれど、想い出を。