重松さんの描く物語はちょうど僕ぐらいの男の人の悲哀に溢れている。作者本人がというわけではないだろうけれど、ちょうどこれぐらいの年齢の、いろんな立場にいる男の人が共通に持っているであろう、もう若くはないということへの諦め、ずっと心の底に隠していた過去の失敗、夢見ることへの少しの落胆、などなど、まだまだ先は長いけれど、振り返ってみてもだいぶ来ているような気もして、いままでの、そしてこれからの人生に迷うひと時、そんなものを描いているんだとおもう。実際身につまされるというか、じんわり実感することが多い。
この本は子供の受験失敗による荒れ、妻からの突然の離婚発言、そして自身のリストラにより生きていくのが嫌になってしまった、38歳の夫の話。もう死んだほうがましだ、とおもった彼の前に止まったワインカラーのオデッセイ。誘われるままに乗り込むと、そこには同じような年齢の父子が。彼らは主人公にとってたいせつな場所に連れて行ってくれるという。そしてそのたいせつな場所で出会ったのは、自分と同じ年齢の父親だった・・・・。
いろんな形の父子関係が描かれる。どれもうまくいってない。それは男同士だからか、はたまた家庭の形のせいなのか?
解説で斉藤美奈子さんが『XY – 男とは何か』(エリザベート・バダンテール)を引用している(そのままさらに引用)
「十九世紀半ばを過ぎて工業社会が実現すると、過程は新しい相貌を帯び始めた。男性たちは一日中、工場、鉱山、オフィスなど家庭の外で働かなければならなくなった。都会に住む家族の父親と子どもとの接触は著しく減り、父親は子どもの目には、なにかわけのわからない仕事をしている遠い存在になってしまった。(略)その50年後には、世界は、交流のまったく無い異質な領域に二分された。母親が管理する家族という私的な領域と、男だけの国である公的な職業の領域である」
なるほど、その通り(おおまかには)。いまでは当たり前とおもっている現在の社会における家族のありかたは、よく考えると非常におかしな形だ。両親と子どもがそろうときというのは一瞬だ。あとは勝手ばらばら。子どもが大人という存在のあるべき形を学習できなくて当然だし、親は子どもの姿を見失ってしまう。でもこの状態を当たり前で、これでなんとかなる(なってもいないが)と思い込んでしまっていることが、一番問題なのかもしれない。これを読むまで僕自身もあまり疑問に思っていなかった。
親のことが嫌い、子どものことがわからない、これはもしかしたら当たり前で、あまりにも短い共有時間では何も分からないし、ましてや年齢の違う、立場も違う男同士というのは理解しあえないのかも。時間をかけないことには。
解説で重松さんもこんなことかいてるけれど、ふと父が自分と同じ年齢のときはどうだったか?または子どもが自分の年齢のときにどうなってるのか?ということを想像したら、少し両者の距離は縮まるのでは、と。もっともっと男同士だから理解しあえる”朋輩”になれるんでは、とおもう。難しいかもしれないけれど、たしかに単に遠い存在である父が(ぼくは子どもいないので)、自分と同じ年齢の存在のときどうだったかと考えると、少しだけ近い人物像になるような気がする。
父子関係を考えさせられる、寂しいけれど、すこしあったかくなる物語。
講談社文庫 2005