「サマー・オブ・ソウル」

ちょっと前に映画「サマー・オブ・ソウル」観に行って来ました。以前何かの映画観に行った際にこの映画の宣伝やってて、これは観に来なければならない!と思っていたのでした。

この映画は、かの有名な音楽フェス「ウッドストック」と同じ年の夏にNYのハーレム地区の公園マウント・モリス・パークで6回に亘り開催された「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」という無料の音楽フェス。スティーヴィー・ワンダーやスライ、B.B.キング、ザ・フィフス・ディメンション、ステイプル・シンガーズ、マヘリア・ジャクソン、グラディス・ナイト、モンゴ・サンタマリア、アビー・リンカーン、ニーナ・シモンなどなど錚々たる黒人ミュージシャンが出演した。その記録映画。大半の撮影は行われたのだけれどそれが公に公開されることがなく、50年以上経って映画の形にまとめられて今回公開された。

僕たちが憧れる錚々たるミュージシャンたちの若い時の姿、素晴らしい音楽の数々を体験できるのがとても楽しみ!と思っていたけれど、それ以上に、単に憧れたりかっこいいと思っていた音楽が、彼ら黒人たちからいかにして発露されたものだったのかということが、当時の社会情勢とともに(特に黒人の差別そして解放運動から貧困問題への流れなど、僕はちっとも詳しくない)表現されていて大きな衝撃を受けた。先日観たアレサ・フランクリンの映画でもそうだったけれど、彼らの苦しみ、解放への執念、それに力を与える宗教、それらの想像以上の強大さに畏怖した。彼らの音楽がなぜこうもカッコよく、そして体の奥に響いてくるのか、その理由が少し感じられた気がした。

(不幸にも)こういうことがあって生まれ出たものたち、そういう原動力があってこその音楽なのか?そうでない状況のところからくる音楽はどうなのか?生きる衝動としての止められない大いなる力から生み出された音の圧倒的なパワーに打ちのめされ、自分はいったいどうしたらいいのか分からなく、すごく矮小なものであるように思ってしまった。それでもどこかに何かに存在の理由は見つけられるだろうけれど、この映像に映るものものの強烈さに打ちのめされそうになる。

そういう意味でも、とてもいい映画だった。悩みは深くなったけれど。今まで音楽そのもののことはいろいろ体験して来たとは思うけれど、その後ろに延々と広がる歴史はちっとも意識していなかった。また音楽の聞き方が捉え方が変わってゆく。

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