BLUE GIANT

先週公開されたばかりの映画「BLUE GIANT」を観に行ってきた。実は原作の漫画「BLUE GIANT」自体は一度しか読んだことない(しかもヨーロッパ編が始まったとこらぐらいまで)のだけれど、ジャズが主題だし、主人公はテナー吹きだし、何より紙面から伝わってくるアツさ(ジャズがオシャレとかかっこいいとか難しい、のような今までの固定概念的なイメージじゃなくて、とにかくアツさが前面に出まくる感じ)にとても心奪われたので、映画になったときに一体あの演奏シーンがどう描かれるのだろう?というのにすごく興味があって。

10冊の漫画を2時間の映画にしているので、ストーリーは最初の方がだいぶ省略されている感じで(それでも話はわかるけれど)、主人公のあのアツさがどうやって育まれていったのかはわかりにくいのが少し勿体無いなーと(もしかして単なる天才少年だと思われちゃうかも。彼がジャズといかに出会って、いかにそのアツさを、ジャスを、テナーを好きになったかという前提をもう少し描いて欲しかったなあ)思ったけれど、とくにバンド”JASS”を組んで以降の演奏シーンはとてもカッコよかったし、アニメだからこそできる感じになってて素晴らしかった。

まあぼくが主人公にえらく共感してる(どっちかいうとエモーショナルな演奏が好き)からだとは思うけれど、かなりデフォルメされた演奏中の映像や、差し込まれるエフェクトの感じ、あれらが「ああ、演奏してるとき、そんな風に感じることあるなあ」と思うものだったので、嬉しくなった。BLUE GIANT(真にすごい演奏のときは青い炎のように感じられる、という逸話から)ということを表現してたのだと思うけど、それ以上に何か映像が音楽体験的だったように感じられた。ああいうエフェクト感とかカメラワークって実写ではかなり難しいし、実際のミュージシャンにやらせたらめちゃくちゃ大変だろうなのはよく分かるので、アニメだからこそできたことで、しかもほんとうまく表現したなーと感じた。

主人公たちのバンドの音自体は、テナー宮本大役は馬場智章(昨年聴きに行ってめちゃカッコよかった)、ピアノ沢辺雪祈役は音楽全体も担当した上原ひろみ、タイコ玉田俊二役は石若駿。彼らがどんな音を聴かせてくれるのかもとても楽しみだったけれど、まだバンド結成時(タイコ玉田に関してはずぶの素人)のときの音が面白くてw 僕もそういう経験あるからなんとなく想像できるけれど、経験豊かな人が素人ぽい演奏するのって難しい。どこか上手なところが見え隠れしてしまうw(とくにまだ発展途上の人がそれでも精一杯演奏してるのを真似するのはとても難しいと思う)でもそこから各人がレベルアップして、バンドとしてもまとまっていく過程で、演奏もどんどんよくなるし、ラストシーンは本領発揮的な素晴らしい演奏で、アニメの映像とも相まっていいライブを観たような気持ちになれた。いいシーンだった。これは漫画だけではできなかったなあと。

一番注目していた扱われる音や音楽自体もだけれど、演奏も原作のアツさを損なうことなくそれ以上のものを素晴らしく表現できてるなーと思えた。いい映画だったな。

モリコーネ

映画「モリコーネ」(英題ではENNIO)を観にいってきた。それほどたくさんの彼の音楽を知ってるわけじゃないけれど、大好きな映画「NEW CINEMA PARADISO」の曲が本当に素敵で、ああ、これがモリコーネの音楽か!と認識して以来、ずっと好きな人。

惜しくも2020年に亡くなってしまったけれど、彼がまだ生前に撮影された(多分この映画作る予定だったんだろうねえ)インタビューも交えながら、錚々たる映画監督や音楽家が彼のことをいろいろ語る映画。そして全編にモリコーネの音楽が流れる。

2時間半以上あるけれどあっという間。いかに彼が、編曲者として仕事をスタートさせてから、芸術としての音楽家たちから軽蔑されつつも、映画音楽を素晴らしい高みに上げ、今知られる地位に至ったのか、それがたくさんの音楽とたくさんの言葉で綴られる。観たことある映画もあれば知らない映画もたくさん。そして映画音楽以外にもたくさんの芸術音楽(現代音楽みたいなのやってるの知らなかった)を生みだし、晩年まで精力的に活動して、今もなお次の世代にも若い人々にも影響を与えている、そんな全然しらなかったことがたくさん語られていた。

曲のことや、映画のこと、その当時のことなど、本人の口から語られることは貴重で面白いし、ほんと音楽を愛し愛されたんだろうなとスクリーンを通して感じられる。そしてとても真摯で勤勉で。彼の言葉を通していろんなことを与えてもらったように感じる。

にしても、映画を観るにしても、本を読むにしても、音楽を聴くにしても、まして演奏するにしても、人生は短すぎるな。いくらあっても時間が足りない。

新春2テナーありがとうございました

昨夜の新春2テナー、お越しいただいたみなさんありがとうございました!

やはり河村くんと並んでやるのはとても刺激的で面白いのです。一年の自分の成長具合を測るものさしのような感じもします。あー、よく吹いて楽しかった!

そして持ち寄ってやると知らない曲に出会えるのも楽しいことだし、テナー吹きはやっぱりテナーに合う曲を持ってくるのよねえ。Ahmad Jamalの「Night Mist Blues」めっちゃ楽しい曲!

同じ楽器になって、こっそり2人で楽器を眺めてニタニタしていました。こういうところ子供みたいで変わらんねえ、お互いw

すずめの戸締まり

久しぶりに映画館で映画を見た。先月半ばに札幌行った帰り、時間があって新千歳空港の映画館で。新千歳空港には映画館とか温泉もあるのよね。

先日テレビで細田監督の「竜とそばかすの姫」が放映されて、その時にこの「すずめの戸締り」という新海監督の新作映画の冒頭部分が流れてとてもおもしろそう!観たいなーと思ってたのだけれど、全然時間がなく。でも今日空港でぽっかり時間が空いたので観に行った。

高校に通う主人公鈴芽(すずめ)が、ある日イケメン(宗像草太)に「この辺りに廃墟はないですか?」と声をかけられる。言ったものの気になった彼女はその廃墟に彼を探しにいくが見つからず代わりに不思議な扉を見つけるのだが、その扉を開くと美しくも不思議な世界が広がっていた。そしてその時猫のような石を拾う。

その後軽い地震があったとき、その廃墟から不気味な物体が出て来るのを見て、慌ててその場所へもどった彼女は先ほど出会った男がその扉を閉じようとしていた。その扉は常世に繋がっており、ミミズと呼ばれる地の歪みのエネルギーからなるものがでてくると地震が起こるらしく。それらが出てくる裏口を閉じるために「閉じ師」という人々がいるという。彼は猫に呪いをかけられ椅子に憑依させられてしまい、一人では満足に仕事ができないこと、そして鈴芽自身の子供の頃の体験がその扉に繋がっていると感じ、彼の行動を手伝うようになる。

その冒頭部分を見たときはもっとファンタジーぽいものなのかなと思っていたけれど、すごくリアルな世界だった。ほんとこういうことがあるのかもと思ってしまう。鈴芽が恋に落ちるのが早すぎるけど^^; 宮崎から船で八幡浜、そこから車で神戸、新幹線で東京、やがて車で東北という道のりがとてもよく知っている景色のとこばかりで嬉しくなったり。ああ、ここどこそこだなーって分かる(四国は普通なら高速走るだろうに今治通るルートになってたのが不思議だけどw)。

福島では双葉町あたりの国道6号線の景色を出したり、その先にずっとつづく海岸沿いの高い堤防の様子が描かれていたり、冒頭のシーンで建物の上に船が乗っている回想シーンで想像してたけど、11年前の東日本大震災と津波が大きなキーになってて、途中で宗像が扉を閉じるために「その場所で生活していた人のことを想像して」という言葉と相まって、、、胸がとても苦しくなった。泣きはしないけれど、無念というか、、、想像を絶する。でもよくこのリアルに衝撃的すぎる過去をいま描いてくれたな、思い出し、憶えていられるように出してくれたなと思う。

ちゃんとは覚えてないけれど、宗像がいう「我々の寿命は短いことはわかっているけれど、それでも少しでも長く生きたいと願っている。1年でも、1日でも長く」という意味のセリフが刺さってきた。普段はまったく意識していないけれど、本当その通り。神戸の震災の時に明日は全くわからないものだと痛烈に感じたのと同じことを言ってくれた。もちろん東北の震災でも同じ思いをした方はたくさんいるだろう。

友人の芹澤が車で東北へ出発するとき、荒井由実の「ルージュの伝言」をかけるところでニヤっと。「旅立ちにはこの曲」とか「猫もいるし」というセリフはジブリの「魔女の宅急便」を見たことあるって設定よね。しかも彼は2022年で大学生だから、再放送とかDVDとかで見たってことよね。僕たちが子供の頃にわーーって思ったことが、引き継がれているって描かれてるのが嬉しくなるし、映画が現実と地続きになってる感じがつよくなる。まあ彼の場合その後も昭和歌謡たくさん流してたから、それが好きなのかもだけれど。画面に懐かしい曲がたくさん出て来てうれしかったな。最初の方の追っかけっこのシーンで流れるビッグバンドだけが、なんか異色だったけれどねえ。でもこれはもしかしたら「カリオストロの城」へのオマージュかなあ?ということは全体的に宮崎駿監督への何かがあるのかな?

なんにせよ、そんな数見てないけれど新海監督の映画の中ではシンプルな作品な感じがする。でもシンプルなだけに伝わって来やすいのかも。よく取り上げられる空や風景の描写の鮮烈さは控えめな感じで、ストーリー描写や言外の部分に力を込めたのかなあと思う。いい映画でした。家でもまたじっくり見たいな。

100巻

コロナの第1波が来て日本中が緊急事態宣言だったころ、Facebookとかでいろんなバトン回し的な投稿が来たものだったけど、その中に好きな本を5つ挙げるというのがあった。さすがにチェーン的なものに加担するのは面倒だったので、一冊だけ、その時好きな、というか、ずっと好きで読み続けてる本(未完のまま他界された。しかし有志で続きのようなものが書き続けられてる)、栗本薫さんのグイン・サーガを挙げた(「好きな本」)のだけれど、その時とても久しぶりに出して来たその本が気になってページをめくってみたが最後、そこから今に至るまでずーーーっと続きを読んでいる。それが先日100巻までついにきた。

実際の刊行ではここまでに26年かかっている(2005年発行)。今までにも何度か栗本さんの筆が鈍って新刊が出ない時期に(年に4冊以上のペースで出てたけど、全く出なかった時もあった)一から読み返したことが2、3度あったような記憶があるけれど、今回ほどちゃんと読んだのは初めてかも?というのも、読み返してみるとところどころ欠けてる巻があって、そこはどうやら読み飛ばしてたみたい。でも結構どの巻も大事なんだけれど。なんで、それらを古本で買い足して足りないところを全部埋めて読んで来て、この度100巻を超えた。2年4ヶ月くらいかかった。

なんで、いつもは本を読んではたまにはレビューをブログに書いたりしてたのを最近ほとんどしてないのは、このシリーズばっかり読んでたからだったのでした^^; まだあと外伝も入れたら70冊近くあるし、、、どこかキリのいいところで一旦止めようかなーと思ってたけれど、物語の勢いが止まらずしばらくこのまま続けて読むことになりそうです。でもたまには違う本も読むんだけれど。

今回こうやって知ってる話を再び読んで思うことは、何度か読んでるのに気づいてないことがあったり、違う解釈をしてみたりと、読むたびに感触が変わるということ。これは文章だけでなく、絵画や映画、音楽でもそう。出会うタイミングによって感じ方が変わる。そして対峙するたびに新しい発見があったり、より深く考察したりする。

一つの作品にその作者が込めたものは計り知れない。時間をかけて対峙し、強く感じることによって少しずつそれらが紐解かれていく。その過程はとても楽しいことだけれど、自分が惹かれる全てにおいてそういうものがあるということ気づくと、圧倒されて、途方に暮れてしまう。

いわゆるサブスクがいろいろなジャンルに適応されるようになって、たくさんのものに短時間で出会えるようになったことは素晴らしいことだとは思うけれども、特に文化芸術的なものに関しては両手を上げて歓迎すべきものではないのじゃないかと思う。広く識ることは大事な側面ではあるけれど、ひとつのものにゆっくり対峙して、深く考察することのほうが、よりたくさんのことを識ることができるのではないか、と思う。

話が逸れちゃったけれど、グイン・サーガ、まだまだこの先も楽しみ。終わりまで読むノダ。

The Beatles Get Back – The Rooftop Performance

ビートルズの映画が公開されてて今夜が近所の映画館の最終上映回だったので見に行ってきた。この映像自体は昔からあるもののはずだけれど、僕は全部を見るのは初めて。ビートルズの音楽はとても好きだが、関連することはあまり首突っ込んでこなかった。何に対してもそういうところ多いけれど。

何の前知識もなく見て、とても面白かった。アルバム「Let It Be」に収録されてるテイクもあって馴染んだ音だし。演奏こうやってやってるのかーって感心するところも。動く彼らを見てると、この頃バンドがどういう感じだったのかがなんとなく透けて見えてくるようでもある。もともとの4人の性格の感じも出てる気がするな。ポールはいい子、ジョンは茶目っ気と反抗心、ジョージは少し引っ込み思案で病んでて、リンゴはおおらかで自分が好き、ていうような(違うと思うけど)。

屋上でのライブが終わってからスタジオでプレイバック聴く姿や、さらにその後エンドロール内でのスタジオでの録音風景見てると、何か大きなものが終わりゆくときの感じだなあと思う。いろいろ紆余曲折してここまできたけれど、もう巻き戻せないところまで来たなとみんな感じてて、でも、もう少しの時間で何かやっておきたい、って思ってるような。すごく寂しい感じ。

にしても、ビートルズが4人で演奏した最後となったこのライブは1969年1月30日。僕が生まれる少し前。もう53年前だからこの映像に映ってる人の大半はこの世にいないんだろうな。僕がビートルズを知ったのはジョンが撃たれた後だった。全く僕の生きている時間とは重なってないバンド/音楽だけれど、ビートルズは僕の音楽の根本の大半を占めてると言い切れる。すごく好きだし影響受けてきたし。

だから、このライブの時間をリアルに体験できた人がとても羨ましい。この映像に映る人と交代できたらどんなに嬉しいか。隣の屋上にいた人なら最高だし、向かいのビルでうるさいなーって思ってる人でもいいし、遠くの屋根でもいいし、下の道路を通りかかった人でもいい。もうなんなら敵役みたいに描かれてる警官でもいい(あの人たちってこの映画になるの許可とってるんかな?)。映像と音からあの時間のあの空気感を想像力をフルには働かせて想像して見てた。

配信されてるレコーディングセッションの映像もみようかなあ、迷う。これまであまり音のこと以外興味なくきたけれど、今からなら知りたいと思うなあ。もっと若い時に今日の映像みてたらビートルズ少し嫌になってかもしれないな、悲しいから。この映像に映る4人ってまで20代なのよね。やっぱり何か大きなものを産むことができるのはこの頃なのかな。歳とってからいろいろこねくり回すことは上手くできるようになるけれど、盲信的に破壊的に創造できるのはもう無理なのかなあ。

ps
IMAXでの上映だったけれど、音や映像がいいのはさておき、IMAX自体の推しが強くてちょっとウザい。いい体験したら普通にIMAXってすごいなって思うのに、そんなにプッシュされたら逆に嫌になる人少なくないんじゃないかなあ。

伊坂幸太郎 – 火星に住むつもりかい?

伊坂さんの筆にかかると、かなり深刻で怖いことでも「怖いけど、そこまででもないかなー」とか思ってしまいがちだけれど、実際リアルな社会においてその物語の中で語られるような物事があったらどうなるだろう?と想像すると、すごく怖いことだったりする。

いきなり普通の人がしょっぴかれて行って、何かわからないうちに断頭台に送り込まれ、それを人々が「悪い人だったんだよね。仕方ないね」とか言いながら眺めるのが普通な状態、それって後にも先にもすごく異常な状態なんだと思うけれど、かつて中世の魔女狩りがあった頃のその場では普通の感覚であったのか。

ネットが発達し、いろんなものが可視化されて便利になっていくにつれ、実際には見えないもの/消されるものが増えていく。たくさんのひとが支持する意見や事実と叫ばれるものが正しいとは言えない。しかし大半はその大きな意見、人の噂に流されていく。面白い噂や怪しい噂、危険なことでも「自分のことでなければ」とネットの画面内のことと自分の世界が遮断されていると思い込んでないだろうか?それがある日自分に降りかかってきて、他人がかつての自分と同じように関係ないことと冷ややかに見る状態になると想像できないだろうか。

便利になっていく世の中は逆にいうとコントロールしやすい世の中になっていく。そしてコントロールされていることを気づかないまま人々は目の前のことに忙しく生きている。何かおかしなことがあって人々が迷惑したり怒りが高まっても、ガス抜きをする手段があればいい。実際どうかわからないけれど、それに近いとても危険な状態であってもおかしくない、そんなことを伊坂さんは危惧してこの物語を書いたのかな、と勝手に想像する。ハードボイルドの作家さんが書いたらさぞや怖い小説になるんだろうなあ。

音楽の話はほとんど出てこないけど、昆虫の擬態の話が随所にでてくるのが面白い。そして組織というものの本質「前例のないことが起こるとその対処に上層部の手腕が問われるので、組織はそれを嫌う」(のようなことが書いてあったけど見つけられない)、警察だけではないだろう組織の心理「個よりも組織が優先される」というような辛辣なことなどが、狂言回しの真壁から語られて、なるほどなーと思うのも面白く、嫌なことだなとも思う。

これまたうまく伏線が散りばめられていて、読者は見事に読みながら想像する話の全体像をそらされ引き込まれ、ああ、というところに流れていく。見事すぎ。2度読んだけれど結局真壁がいつから現れていたのか読んでもわからず、それもトリックか。まあちょっと終わるにあたって強引な部分もあったかな。

「ただ、何がどう変わろうと、別に、世の中が正しい状態になるわけじゃないけどね」

「大事なのは、行ったり来たりのバランスだよ。偏ってきたら、別方向に戻さなくてはいけない。正しさなんてものは、どこにもない。スピードが出過ぎたらブレーキをかける、少し緩めてやる。その程度だ」

ぼくのりりっくのぼうよみさんの解説がなるほどーという感じ。

光文社 2018

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筒井康隆 – くたばれPTA

先日筒井さん読んでから微妙に筒井さん熱がつづいていて、数冊買って読んでいってるけれど、感想をなかなか書けず。

いまこんなタイトルの本いいんか?って感じだけれど、ショートショートの本。昭和な(筒井さんの趣味?)香りがプンプンする内容と文体で、いい意味でまだ男性社会だった時代の昭和を感じる作品。SFぽいものから、恋愛ぽいもの、少しブラックユーモア的なもの、ちょっとエッチなものまでいろいろ、どれも楽しい。

音楽的で楽しい「ナポレオン対チャイコフスキー世紀の決戦」実際ありそうで怖い「カラス」手塚治虫が描いてそう「蜜のような宇宙」今なら完全にアウト(笑)「女権国家の繁栄と崩壊」などなど。表題の作品「くたばれPTA」はある意味今の社会を予言しているかのよう。

筒井さん楽しいな。

新潮文庫 1986

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竜とそばかすの姫

だいぶ前に観に行ったのをいまごろレビュー。

今回も細田監督、やってくれたなーという感じ。毎作期待して劇場に足を運んで、観に来てよかったなあと思う。

「サマーウォーズ」のときと同じく仮想空間が主な世界になってるのは似てるけれど、前はもう少し拡張されたSNS的な世界観だったけれど、今回は完全に没入できる仮想空間、つまりもう一つのリアル世界で、その導入というか、違和感やいらない説明のない世界の提示のしかたが見事だったなーと。そしてもうひとつ、音楽がとてもフューチャーされているのが嬉しかった。音楽の力とか、音楽の素晴らしさを映像で表現するのってとても難しいと思うのだけれど、もちろん劇中で流れる音楽もだし、音楽の扱われ方も良かったなーと思った。

宮崎監督作品と同じように芯の強い女の子が活躍して(中にはそうじゃない方もいたけど)というのと似てるかもだけど、細田監督のほうがもっと地平が近い感じ、いまのリアル世界との地続きのところに細田監督が描く世界があるように感じられる(宮崎監督作品のほうがもっと映画的に思う)のもいいなーと。サマーウォーズもこの作品もいたって普通の女子高生だもんね。

細田監督の映画を観ると、すこし魔法がかかったような気分になって、映画館を出ても作品の世界がまだつづいているような感覚がしばらく続く。これはきっと映画というもので大事なことのひとつなんだろうと思う。だから子供が観ても大人が観ても楽しいんだろう。大切なこと。宮崎駿監督も同じような事言ってたように記憶している。

期待して観に行って、それ以上のものをもらったような気がして嬉しい。また観たい。手元に置いておきたいな、やっぱり。

「サマー・オブ・ソウル」

ちょっと前に映画「サマー・オブ・ソウル」観に行って来ました。以前何かの映画観に行った際にこの映画の宣伝やってて、これは観に来なければならない!と思っていたのでした。

この映画は、かの有名な音楽フェス「ウッドストック」と同じ年の夏にNYのハーレム地区の公園マウント・モリス・パークで6回に亘り開催された「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」という無料の音楽フェス。スティーヴィー・ワンダーやスライ、B.B.キング、ザ・フィフス・ディメンション、ステイプル・シンガーズ、マヘリア・ジャクソン、グラディス・ナイト、モンゴ・サンタマリア、アビー・リンカーン、ニーナ・シモンなどなど錚々たる黒人ミュージシャンが出演した。その記録映画。大半の撮影は行われたのだけれどそれが公に公開されることがなく、50年以上経って映画の形にまとめられて今回公開された。

僕たちが憧れる錚々たるミュージシャンたちの若い時の姿、素晴らしい音楽の数々を体験できるのがとても楽しみ!と思っていたけれど、それ以上に、単に憧れたりかっこいいと思っていた音楽が、彼ら黒人たちからいかにして発露されたものだったのかということが、当時の社会情勢とともに(特に黒人の差別そして解放運動から貧困問題への流れなど、僕はちっとも詳しくない)表現されていて大きな衝撃を受けた。先日観たアレサ・フランクリンの映画でもそうだったけれど、彼らの苦しみ、解放への執念、それに力を与える宗教、それらの想像以上の強大さに畏怖した。彼らの音楽がなぜこうもカッコよく、そして体の奥に響いてくるのか、その理由が少し感じられた気がした。

(不幸にも)こういうことがあって生まれ出たものたち、そういう原動力があってこその音楽なのか?そうでない状況のところからくる音楽はどうなのか?生きる衝動としての止められない大いなる力から生み出された音の圧倒的なパワーに打ちのめされ、自分はいったいどうしたらいいのか分からなく、すごく矮小なものであるように思ってしまった。それでもどこかに何かに存在の理由は見つけられるだろうけれど、この映像に映るものものの強烈さに打ちのめされそうになる。

そういう意味でも、とてもいい映画だった。悩みは深くなったけれど。今まで音楽そのもののことはいろいろ体験して来たとは思うけれど、その後ろに延々と広がる歴史はちっとも意識していなかった。また音楽の聞き方が捉え方が変わってゆく。