The Beatles Get Back – The Rooftop Performance

ビートルズの映画が公開されてて今夜が近所の映画館の最終上映回だったので見に行ってきた。この映像自体は昔からあるもののはずだけれど、僕は全部を見るのは初めて。ビートルズの音楽はとても好きだが、関連することはあまり首突っ込んでこなかった。何に対してもそういうところ多いけれど。

何の前知識もなく見て、とても面白かった。アルバム「Let It Be」に収録されてるテイクもあって馴染んだ音だし。演奏こうやってやってるのかーって感心するところも。動く彼らを見てると、この頃バンドがどういう感じだったのかがなんとなく透けて見えてくるようでもある。もともとの4人の性格の感じも出てる気がするな。ポールはいい子、ジョンは茶目っ気と反抗心、ジョージは少し引っ込み思案で病んでて、リンゴはおおらかで自分が好き、ていうような(違うと思うけど)。

屋上でのライブが終わってからスタジオでプレイバック聴く姿や、さらにその後エンドロール内でのスタジオでの録音風景見てると、何か大きなものが終わりゆくときの感じだなあと思う。いろいろ紆余曲折してここまできたけれど、もう巻き戻せないところまで来たなとみんな感じてて、でも、もう少しの時間で何かやっておきたい、って思ってるような。すごく寂しい感じ。

にしても、ビートルズが4人で演奏した最後となったこのライブは1969年1月30日。僕が生まれる少し前。もう53年前だからこの映像に映ってる人の大半はこの世にいないんだろうな。僕がビートルズを知ったのはジョンが撃たれた後だった。全く僕の生きている時間とは重なってないバンド/音楽だけれど、ビートルズは僕の音楽の根本の大半を占めてると言い切れる。すごく好きだし影響受けてきたし。

だから、このライブの時間をリアルに体験できた人がとても羨ましい。この映像に映る人と交代できたらどんなに嬉しいか。隣の屋上にいた人なら最高だし、向かいのビルでうるさいなーって思ってる人でもいいし、遠くの屋根でもいいし、下の道路を通りかかった人でもいい。もうなんなら敵役みたいに描かれてる警官でもいい(あの人たちってこの映画になるの許可とってるんかな?)。映像と音からあの時間のあの空気感を想像力をフルには働かせて想像して見てた。

配信されてるレコーディングセッションの映像もみようかなあ、迷う。これまであまり音のこと以外興味なくきたけれど、今からなら知りたいと思うなあ。もっと若い時に今日の映像みてたらビートルズ少し嫌になってかもしれないな、悲しいから。この映像に映る4人ってまで20代なのよね。やっぱり何か大きなものを産むことができるのはこの頃なのかな。歳とってからいろいろこねくり回すことは上手くできるようになるけれど、盲信的に破壊的に創造できるのはもう無理なのかなあ。

ps
IMAXでの上映だったけれど、音や映像がいいのはさておき、IMAX自体の推しが強くてちょっとウザい。いい体験したら普通にIMAXってすごいなって思うのに、そんなにプッシュされたら逆に嫌になる人少なくないんじゃないかなあ。

伊坂幸太郎 – 火星に住むつもりかい?

伊坂さんの筆にかかると、かなり深刻で怖いことでも「怖いけど、そこまででもないかなー」とか思ってしまいがちだけれど、実際リアルな社会においてその物語の中で語られるような物事があったらどうなるだろう?と想像すると、すごく怖いことだったりする。

いきなり普通の人がしょっぴかれて行って、何かわからないうちに断頭台に送り込まれ、それを人々が「悪い人だったんだよね。仕方ないね」とか言いながら眺めるのが普通な状態、それって後にも先にもすごく異常な状態なんだと思うけれど、かつて中世の魔女狩りがあった頃のその場では普通の感覚であったのか。

ネットが発達し、いろんなものが可視化されて便利になっていくにつれ、実際には見えないもの/消されるものが増えていく。たくさんのひとが支持する意見や事実と叫ばれるものが正しいとは言えない。しかし大半はその大きな意見、人の噂に流されていく。面白い噂や怪しい噂、危険なことでも「自分のことでなければ」とネットの画面内のことと自分の世界が遮断されていると思い込んでないだろうか?それがある日自分に降りかかってきて、他人がかつての自分と同じように関係ないことと冷ややかに見る状態になると想像できないだろうか。

便利になっていく世の中は逆にいうとコントロールしやすい世の中になっていく。そしてコントロールされていることを気づかないまま人々は目の前のことに忙しく生きている。何かおかしなことがあって人々が迷惑したり怒りが高まっても、ガス抜きをする手段があればいい。実際どうかわからないけれど、それに近いとても危険な状態であってもおかしくない、そんなことを伊坂さんは危惧してこの物語を書いたのかな、と勝手に想像する。ハードボイルドの作家さんが書いたらさぞや怖い小説になるんだろうなあ。

音楽の話はほとんど出てこないけど、昆虫の擬態の話が随所にでてくるのが面白い。そして組織というものの本質「前例のないことが起こるとその対処に上層部の手腕が問われるので、組織はそれを嫌う」(のようなことが書いてあったけど見つけられない)、警察だけではないだろう組織の心理「個よりも組織が優先される」というような辛辣なことなどが、狂言回しの真壁から語られて、なるほどなーと思うのも面白く、嫌なことだなとも思う。

これまたうまく伏線が散りばめられていて、読者は見事に読みながら想像する話の全体像をそらされ引き込まれ、ああ、というところに流れていく。見事すぎ。2度読んだけれど結局真壁がいつから現れていたのか読んでもわからず、それもトリックか。まあちょっと終わるにあたって強引な部分もあったかな。

「ただ、何がどう変わろうと、別に、世の中が正しい状態になるわけじゃないけどね」

「大事なのは、行ったり来たりのバランスだよ。偏ってきたら、別方向に戻さなくてはいけない。正しさなんてものは、どこにもない。スピードが出過ぎたらブレーキをかける、少し緩めてやる。その程度だ」

ぼくのりりっくのぼうよみさんの解説がなるほどーという感じ。

光文社 2018

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筒井康隆 – くたばれPTA

先日筒井さん読んでから微妙に筒井さん熱がつづいていて、数冊買って読んでいってるけれど、感想をなかなか書けず。

いまこんなタイトルの本いいんか?って感じだけれど、ショートショートの本。昭和な(筒井さんの趣味?)香りがプンプンする内容と文体で、いい意味でまだ男性社会だった時代の昭和を感じる作品。SFぽいものから、恋愛ぽいもの、少しブラックユーモア的なもの、ちょっとエッチなものまでいろいろ、どれも楽しい。

音楽的で楽しい「ナポレオン対チャイコフスキー世紀の決戦」実際ありそうで怖い「カラス」手塚治虫が描いてそう「蜜のような宇宙」今なら完全にアウト(笑)「女権国家の繁栄と崩壊」などなど。表題の作品「くたばれPTA」はある意味今の社会を予言しているかのよう。

筒井さん楽しいな。

新潮文庫 1986

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竜とそばかすの姫

だいぶ前に観に行ったのをいまごろレビュー。

今回も細田監督、やってくれたなーという感じ。毎作期待して劇場に足を運んで、観に来てよかったなあと思う。

「サマーウォーズ」のときと同じく仮想空間が主な世界になってるのは似てるけれど、前はもう少し拡張されたSNS的な世界観だったけれど、今回は完全に没入できる仮想空間、つまりもう一つのリアル世界で、その導入というか、違和感やいらない説明のない世界の提示のしかたが見事だったなーと。そしてもうひとつ、音楽がとてもフューチャーされているのが嬉しかった。音楽の力とか、音楽の素晴らしさを映像で表現するのってとても難しいと思うのだけれど、もちろん劇中で流れる音楽もだし、音楽の扱われ方も良かったなーと思った。

宮崎監督作品と同じように芯の強い女の子が活躍して(中にはそうじゃない方もいたけど)というのと似てるかもだけど、細田監督のほうがもっと地平が近い感じ、いまのリアル世界との地続きのところに細田監督が描く世界があるように感じられる(宮崎監督作品のほうがもっと映画的に思う)のもいいなーと。サマーウォーズもこの作品もいたって普通の女子高生だもんね。

細田監督の映画を観ると、すこし魔法がかかったような気分になって、映画館を出ても作品の世界がまだつづいているような感覚がしばらく続く。これはきっと映画というもので大事なことのひとつなんだろうと思う。だから子供が観ても大人が観ても楽しいんだろう。大切なこと。宮崎駿監督も同じような事言ってたように記憶している。

期待して観に行って、それ以上のものをもらったような気がして嬉しい。また観たい。手元に置いておきたいな、やっぱり。

「サマー・オブ・ソウル」

ちょっと前に映画「サマー・オブ・ソウル」観に行って来ました。以前何かの映画観に行った際にこの映画の宣伝やってて、これは観に来なければならない!と思っていたのでした。

この映画は、かの有名な音楽フェス「ウッドストック」と同じ年の夏にNYのハーレム地区の公園マウント・モリス・パークで6回に亘り開催された「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」という無料の音楽フェス。スティーヴィー・ワンダーやスライ、B.B.キング、ザ・フィフス・ディメンション、ステイプル・シンガーズ、マヘリア・ジャクソン、グラディス・ナイト、モンゴ・サンタマリア、アビー・リンカーン、ニーナ・シモンなどなど錚々たる黒人ミュージシャンが出演した。その記録映画。大半の撮影は行われたのだけれどそれが公に公開されることがなく、50年以上経って映画の形にまとめられて今回公開された。

僕たちが憧れる錚々たるミュージシャンたちの若い時の姿、素晴らしい音楽の数々を体験できるのがとても楽しみ!と思っていたけれど、それ以上に、単に憧れたりかっこいいと思っていた音楽が、彼ら黒人たちからいかにして発露されたものだったのかということが、当時の社会情勢とともに(特に黒人の差別そして解放運動から貧困問題への流れなど、僕はちっとも詳しくない)表現されていて大きな衝撃を受けた。先日観たアレサ・フランクリンの映画でもそうだったけれど、彼らの苦しみ、解放への執念、それに力を与える宗教、それらの想像以上の強大さに畏怖した。彼らの音楽がなぜこうもカッコよく、そして体の奥に響いてくるのか、その理由が少し感じられた気がした。

(不幸にも)こういうことがあって生まれ出たものたち、そういう原動力があってこその音楽なのか?そうでない状況のところからくる音楽はどうなのか?生きる衝動としての止められない大いなる力から生み出された音の圧倒的なパワーに打ちのめされ、自分はいったいどうしたらいいのか分からなく、すごく矮小なものであるように思ってしまった。それでもどこかに何かに存在の理由は見つけられるだろうけれど、この映像に映るものものの強烈さに打ちのめされそうになる。

そういう意味でも、とてもいい映画だった。悩みは深くなったけれど。今まで音楽そのもののことはいろいろ体験して来たとは思うけれど、その後ろに延々と広がる歴史はちっとも意識していなかった。また音楽の聞き方が捉え方が変わってゆく。

筒井康隆 – 七瀬ふたたび

実は筒井さん読んだことなかったのです。最近興味あって日本のジャズ界を牽引してきたようなジャズメンの逸話を読んだりしているとそこに筒井さんの名前がよく出てきて、全冷中(全日本冷し中華愛好会)やらタモリやら山下トリオ、子供心に怖かった映画「時をかける少女」(大林監督の)、ジャズという言葉に惹かれた「ジャズ大名」とかとか、筒井さん自体を知らなくても興味あったりしたものがいっぱいあって、こりゃ一度腰を据えていろいろ読んでみたいなと思って、タイトルに惹かれて手に取った本。

実は3冊ある、超能力者•火田七瀬が主人公のシリーズものの2つめ。自身の超能力(テレパス=人の心を読むことができる)をひた隠しにし転々とする七瀬。超能力の持主と分かった途端世間からは白い目で見られ、やがて排除しようとされる。それをよく理解している彼女は超能力者のことを理解できるのは超能力者だけであろうと旅を続け、その中で何人のも超能力者に出会い、能力の違いはあるものの、理解しあったり、旅の仲間となったりしていく。

しかし世間のどこかに彼らを抹殺しようとする大きな組織があることに気づき、それから逃れるために逃避行をするが、徐々に追い詰められていく、、、、

何よりもすごいなあと思ったのが、七瀬が超能力者であるということを違和感なくすっと読者に受け入れさせる導入の見事さと、想像で補っていくしかない超能力者という存在の心理的な描写、普通のひととの違いの描き方などなど。説明ぽくなくて、ああ、こんな風なんだとすっと腑に落ちていく。テレパスや念動力、未来予知、時間旅行などなどいろいろな能力者が現れるが、その能力以外は普通の人と同じで、その能力ゆえに傲慢であったり、不安を抱えていたり。能力者同士でも信頼し合えるかどうかは分からなかったり。そういった超能力者がいる社会という、想像しにくいものがあたかも普通に存在しているもののように描がかれていて面白かった。決してアメリカ映画みたいな感じじゃないのよね、すごく日本的。そこがまたいいのかな。

このシリーズの最初の作品である「家族八景」も読まなきゃ。他の筒井さんももっと読みたい。

余談だけど、筒井さんいろいろ知りたくてwiki眺めてたら、日本のSF黎明期にSFのイベントDAICONやってたのを知ってびっくり。SF作家の走りだからそりゃそうか。DAICON(大阪開催のSF大会=大阪コンベンション)で3回目(81年)に初めて素人制作のオリジナルアニメが上映されてすごく話題になって、当時漫画やらアニメに興味があった小学生の僕にもそのウワサが流れてくるほどだった。もともとアニメは好きだったけれど。それを作ったのが庵野秀明や岡田斗司夫らだったというから、すごいなー、子供の頃から未だに同じ人たちの影響受けてて、そのもっと前には筒井さんいたのか、と妙に納得したり^^;

新潮文庫  1975

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有川浩 – 明日の子供たち

「かわいそうだと思わないでほしい」

児童養護施設 – 何らかの理由があって親元を離れて暮らす子供達がいる施設。その理由は多岐にわたるだろうけれど、僕も含めてほとんどの人がイメージしているであろうことは「親から離れてかわいそう」「不自由な暮らしをしてかわいそう」的なことだと思う。この本を読むまではぼくはそうだった。いままで関わったことがないということもあるけれど、字面からか、はたまた勝手なイメージか、そういうものを持っている。

ある児童養護施設が舞台。そこに赴任してきた新人職員•慎平。あるテレビの番組から影響を受けて営業の仕事から転職してきたという。彼はこういった施設にいる「かわいそうな」子供達の力になりたい、と願ってやってきた。なんとか頑張って馴染もうとする彼に、そこで長く暮らす優等生の泰子からある日壁を作られ、何故と問い詰めると、彼女が口にした言葉は「かわいそうと思われたくない」。

育児放棄や虐待、死別、引き取り手がいない、などなどいろんな理由で集められた子供たち。辛い思いをしていると思いきや、そうではなくようやく解放された、普通に学校にいける、と幸せを感じる子供もいるのだ。それを知りもしない他所者は勝手なレッテルを貼って憐れもうとする。それは実は辛く傷つくことなのだ。

子供たちは進学を希望しても主に経済的な自立のために就職を強く勧められたり、進学できてもほんのちょっとした理由で社会の波間に沈んでしまったり、経済的に自立することイコール退所であったり、そんな厳しい状況だけれど、学校にいけて、おやつももらえて、ご飯も食べられる、仲間もいる、そういう生活を堪能して暮らしている。そこに集う職員も様々。いろんな子供や職員と交わり、時にぶつかりながら慎平は成長していく。退所後、経済的にや心の拠り所としての場所をもたない子供たちはどうなっていくのか?行政からは義務や負担と思われており、常に予算削減の波に翻弄されているこういった施設の未来は?

この本を読むまでは何も知らなかった場所。慎平や彼の先輩職員たち、そして子供達のいる施設の日常と、それらに挿入される何人かの子供•職員の逸話を挿入しながら物語はつむがれていく。大きく変わっていくことはできなくても少しずついい方向へ変わっていけるとみんなは希望を持っている。それにはまず「かわいそう」というイメージを払拭すること、もっと知ってもらうこと。それを真に願ってある女の子が勇気を振り絞って有川さんに手紙を書いたことがこの物語が生まれる発端となったそう。詳しく丁寧に話をきいて、実際に足を運んで、その上で書かれた物語はとても優しく感動的で、何よりやはりものすごく有川さんテイスト。散りばめられる甘酸っぱさが照れくさく、でも嬉しい気持ちにさせたり。

有川さんって、すごく描きにくい普通なら行間に沈めてしまう気持ちをストレートに書いちゃうのよね。それがもうとてもたまんない。今回も素敵な物語、そして知るべきことを知らせてくれてありがとう、です。

幻冬舎文庫 2018

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西加奈子 – 漁港の肉子ちゃん

西さんの本。映画になるかなんからしいけど、この本を手に取ったときはそんなことは全く知らずに、単に高校の後輩にあたる人で興味あるというのと、やっぱりなんといってもこのタイトルに惹かれて。港をバックにガハハハと豪快に笑う太った大阪のオバはん的な(いい意味で)想像をしてたら、割と近くてびっくりした。

男運がなく、悪い男に引っかかっては借金を背負い、街を追われ、それを返すのに頑張って働いて、でもまた悪い男に引っかかっては、を繰り返してきたらしい肉子ちゃん。本名は菊子。流れ流れてたどり着いた北の(イメージは東北あたり)漁港にある焼き肉屋さん(いくら魚が新鮮でも漁師さんたちも飽きて肉が食いたい時もある!という理屈が面白い)で働くことになったとき、そのふくよかすぎる体型が”肉の神様に見えた”という理由でそんな通り名がついた。肉子ちゃんは娘のキクちゃん(喜久子)と2人でその焼き肉屋「うをがし」の裏にある家で住み込みをしている。

何よりも太りすぎだし、持ち物も服装もダサいし、髪型にいたってはいつの時代の?て感じだし、アホだし、漢字を分解して説明するへんな癖があるし、デリカシーもへちまもない肉子ちゃんだけれど、その笑顔のせいかまっすぐすぎるキャラのせいか、彼女の周りには笑顔が溢れる。それに比べてキクちゃんは小学校のクラスの女子の諍いや、他所から来たカメラマンへの憧れや、自分があまりにも肉子ちゃんに似ていない(キクちゃんはすごく痩せてて可愛い)ことや、いろいろいろいろありすぎる毎日をそんな肉子ちゃんには相談できず、ずっといい子で我慢しているジレンマに悩んでいる。

そんな母娘の日常の物語。ほんと大きなドラマや展開があったりするわけでもなく、まるで例えばアルゼンチン映画のようにただただ時間がしずしずと流れていくだけなのに、とても面白く読める。それはこの漁港の街にいるひとびと、焼き肉屋さん「うをがし」に集まるひとびと、学校の子供達、彼らが、そして彼らの生き方が何でもなくてそれでいてとても魅力的だからだと思う。みんな正直で、時には喧嘩したり、仲良くしたり、いろいろあっても小さな街の中でうまく共存して、同じ時間を、同じ空気を共有して生きている。それがとても愛おしい。

ちょっと逸れるけど最近、前々からいつかは見たいなと思ってた寅さん「男はつらいよ」シリーズを見てるんだけど、寅さんも肉子ちゃんと共通するところがある。やたら何でも間に受けたり、やたら世話焼くわりには上手くできなかったり。見ていてイライラする(実際自分の家族に寅さんいたらもう大変だろうなw)けれど、何故か憎めない、愛してしまうキャラクター。そんなところがこの本を読んでてダブった。

読みながら、描かれる街(もちろんモデルとなったところはあるけれど、架空の街の設定)に何故かシンパシー感じるなあと少し思ってたのだけれど、この物語が生まれるきっかけになったのは気仙沼の漁港側にあった焼肉屋さんだったそう。西さんは震災前にたまたま訪れてこの物語を紡いだそうだけれど、上梓後震災があって津波がきてその焼肉屋さんも流されてなくなったそう(お店は再開したらしい)。その時西さんは出版を悩んだそう。震災後にも訪れたそう。僕もまあまあ同じ景色を見たから(震災前は知らない)相当ショックだったと思う。そんなこともあって物語以上にどこかこの街に、人々に気持ちを寄せてしまうのかもしれない。

もう僕の中には肉子ちゃんもキクちゃんも、サッサンも、ゼンジさんも、マリアちゃんも、マキさんも、二宮くんも、出てくるひとみんなみんなが形作られてて、それぞれ生きて喋って遊んで飲み食いしてる。だからそれを壊したくないから、映画は見ない。

とてもいいお話だったし、西さんを改めてちゃんと読みたくなった。もっとたくさん知りたい。

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二宮敦人 – 世にも美しき数学者たちの日常

友人とSNSを介して話してた時に「こんなの読んでる」といって紹介してくれて、面白そうだなーと思って読んでみた本。もともと理系というのもあって数字とか宇宙とかは好きだけれど、専門ではないのでほんと「好き」って程度のものだけれど、それを突き詰める人たちってどんなのかなーっていうのは興味がそそられる。というのも大学時代、同じ研究室(工学部だった)に数学専門の方がいらっしゃって、その人だけなんか全然見えてるものが違う感じがずっとしてた。工学にもたまに出現する見たことない外国語の呪文のような数式をあーだこーだと議論したり面白いといったり、僕にはちんぷんかんぷんな事が別のものに見えてて、しかも楽しそうな感じがしたもの。

この本は、ひょんなことから数学に興味をもった(理解してみたいと思った)著者(と編集者)が数学者や数学マニアを訪ね歩いて、数学の魅力について教えを請おうとしたインタビュー集。しかしあまりにも地平が違いすぎて、チンプンカンプンだったり諦めモードになったり挫折しかけるけれど、インタビューした皆さんはやはり魅力的で、少しずつ彼らが見ていること、感じていること、数学の魅力そしてダメなところ、そういった話をなんとか理解できるように話してくれる(これインタビューを文章に纏めるの大変だったんじゃないかと思う)ので、著者とともに読者も、数学者という、一般的には偏屈で、変人で、何を考えてるか分からないし、話しても何言ってるか分からないようなイメージ(失礼)が少し変わっていく。

この本を読んでも数学が好きになったり、なんか理解できたりするわけじゃないけれど、なんとなく数学には数学の世界の興亡があって、そこにいる人たちの苦悩と喜びがあって、数字という冷徹な、厳格な、曖昧さのない怖いもの、と思ってしまいがちな世界の中でも悲喜こもごもがあってそこで人々が生きてて血が通ってるというのが伝わってくる。

ただの数字の羅列なのに、そのシンメトリックな感じが美しかったり、面白い並びの数字だなーとおもったり、やっぱり数字は見てて飽きない(Twitterでもいろいろフォローして楽しんでる)けど数学となると、ちょっとまだ怖いなあー。でも、一度は「ロマンティック数学ナイト」を覗いてみたいなー^^

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いしいしんじ – きんじよ

一年前ぐらい、コロナの自粛期間が始まった頃にSNSで流行った「好きな本を紹介するバトン」みたいなので、悩んだあげく栗本さんの「グイン・サーガ」シリーズを選んだとき、懐かしさのあまりページを開いたもんだから、またこのシリーズの再読に火がつき、気がついたらずーっとこればっかり読んでいるので、すっかり他の本を読んで来てなかった。(現在56巻)

少し前にひょんなことでいしいさんの話になり、面白いよーなんて言ってたらこの本面白かったよと貸してもらい(面白い本って人に勧めたり、あげたくなるもの)、読み始めたら面白く、一瞬で読むのがもったいなかったので、1つずつ(エッセイです)ゆっくり噛み締めて読んだ。

東京から三崎、松本と居住地を移って来たいしいさんが現在住んでいるのは実は京都。もう10年以上になるはずだけど、このエッセイはそのタイトル通り自宅の「きんじょ」の話ばかり。10年前に生まれた息子ひとひくんの成長とともに、いしいさんのまた新たな世界が”きんじょ”で広がっていくようすが、いしいさんの人となりが見えるような、口でしゃべってるような、そんな文体で面白く描かれていくのが楽しく、またそこに登場する書店やカフェや自転車やさんや学校などがとても魅力的で、知らなかった京都の魅力がまたずんずん迫ってくるようで、読みながらいしいさんと同じ体験をしたくて、これらの場所を覗きに行きたくなるような、そんなお話ばかり。

そしてこの本がミシマ社の手売りブックスというしりーずで、まずそ題字が息子さんの字というのも愛着わくんだけれど、本に子供がよくやるようにシールが貼ってあって、その手作り感(ほんとに出版の方が手て貼ってるのかしらん?)がまた楽しい。

いしいさんって、物事を面白がる達人なんだと思う。面白がるというか、まっすぐ感じたままに見えたままに見る/楽しむ、というか、子供のようにまっすぐに没頭できて、その対象に魅力を存分に楽しんでしまえる能力の持ち主なんだとおもう。ふつう大人がつまらないと切って捨ててしまうようなことでも、別の角度からそれがとても魅力的に感じられる見かた/感じ方を発見できる子供用なひとなんだろうなーと思う。そのまっすぐさが文章にも素直にあらわれて、読んでいて清々しい気分に、楽しい気分にさせてくれるんだと思う。いしいさんの書く物語も好きだけれど、こういうエッセイ、ほんと好きだな。

ひとひくんの成長も微笑ましく(しかもとても面白い)どのエピソードも楽しいけど、ぼくはお父さんの話が好きだったな。この家族あってのいしいさんなんだなーと思う。

いしいさんのこのテリトリーをウロチョロして、いつかいしいさんに出会いたいなーとほんと思う。でもあったらなんて言ったらいいかわかんないので、とりあえず「好きです!」ていうことに決めてます^^;

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