岩合光昭 x ねこ旅

世界的な動物写真家であり、とくに猫に愛情を注いでその写真を撮り続けている岩合さんのねこ写真集。日本で出会った猫と世界(エジプトやスペイン、モロッコなどなど)で出会った猫たちの写真がたくさん。一度この岩合さんのねこ写真集を買おうと思っていて、昨年また新しいのが出たので本屋さんで手に取ったのだけれど、それからゆっくり眺めていたら、半年ぐらいかかってしまったw

写真集としては小さめのサイズなので、猫の存在感的なものはあまりないのだけれど、すっと手に取っていくつか眺めて、またぱたっと閉じて、じんわりするのにはとてもいい感じ。こうやって見比べてみると、日本の猫とよその国の猫は同じ猫なのにどこか違う感じがするのがわかる。もちろん景色や光の色が違うと言うのもあるのだろうけれど、それよりももっと、生き方というか、街に対する存在の感じとか、馴染み加減というのが違う感じがするのがおもしろい。

なんかね、日本のねこのほうが、おっちゃん(おっさん、ではないところがミソ)ぽいのよね。それに対してよその国の子たちはもっとしゅっとしていてお姉さんみたいな感じ(雄雌関係なく)。もしかして足の長さとかちがったりするんやろか?とまで思ってしまったりするけれど、写真からはわからない。でもなにか身にまとう雰囲気が明らかに違う。同じ油断してる感じでも、その油断さ加減が違う、とか。でもこれは僕の感想なので、よその国の人がみたらまた違って見えるのかも。

猫って一体なんなんでしょうね。どこからも独立していて、でも住む場所や自然には依存したような存在。一般的に動物には表情はないはずなんだけれど、この写真集を眺めていると、同じ顔からいろんな意味を読み取ってしまえる。犬とはまた違う感じなのよね。仏像に近いのかも。

ま、ぼくが猫大好きだから、勝手におもってるだけかも、だけど。

山と渓谷社 2013

浅田次郎 – プリズンホテル【3】冬

プリズンホテル第3巻。冬になるとここ奥湯元あじさい温泉 – 通称プリズンホテル – は雪に閉ざされる世界となる。深い雪のせいでだれも来ないこのホテルに気分転換にと来た看護婦長の阿部(またの名を血まみれのマリア)。そして天才登山家、安楽死が問題とされた医者、などなどまたいろんな人が集まり、それぞれのドラマが交錯する。

この巻のテーマはたぶん命、生と死。そんな大げさな感じでは描いてはいないけれど。救急でとにかく失いかけた命を救い続けることを使命とする看護婦長。苦しい延命治療の果てに患者に死という権利を与えた医師。矛盾しているけれど2人とも見ているものは同じなのかもしれない。しかし不器用にもその自分のできることを信じて止まない。そして死と隣り合うところにこそ生を感じることができるという登山家。本人にはすごく大きなことだが客観的にみるとほんと些細なことで死を選ぼうとする男の子。冬山の厳しさを通して生きるていることの素敵さ不思議さ厳しさを伝えようとする男とその不思議な魅力に気づく少年。これら2組の人物の間でかわされる言葉によって、生きていることの素晴らしさ、命への愛を描く浅田さん。この巻では、ホテルの人たちはあまり活躍せずになりをひそめている分(というわけでもないけれど大暴れしたりはしない)、このテーマがくっきりと浮き彫りになってるように読めて、感触が違うのだけれど、やはりなにか気持ちが安らぐ、そんなお話だった。

しかし今まで粋でかっこいい感じできてた仲蔵親分のうろたえぶりったらw カッコ悪ーw かといって自分がその立場になったら、、、、同じことになりそうな気がするけれど。ぼくもお医者さん苦手だし。

集英社文庫 2001

浅田次郎 – プリズンホテル【2】秋

2作目。任侠団体専用の宿として別名「プリズンホテル」と呼ばれる奥湯元あじさいホテル。ちょっとした偶然から今回投宿することになったのは、警視庁の慰安旅行団体だった。同宿するのは桜会の大曽根一家、往年のスター真野みすず、アイドル崩れの歌手とそのヒモのようなマネージャー、そして実は指名手配されている男。もちろんホテルオーナー仲蔵の甥である作家・木戸孝之介もなぜか秘書兼愛人清子の娘・美加を伴ってやってきた。さぁ、ヤクザとマル暴が同居する一夜、どういう騒ぎが起るのか?

分かりやすいといえば分かりやすいネタかもしれないけれど、今回もとてもいい感じ。普段は公僕とその敵対組織。宴会が隣同士だったことからホテルサイドはすごく警戒するが、その警戒を吹っ飛ばすかのような騒ぎ。でもどちらも実は社会の隅においやられた男たち。ちょっとした諍いから始まるが、最後はなぜか傷をなめ合う仲間になったり。ほんとどじくさい男達が可愛くなってくるから不思議。

でも一番かわいいのは美加ちゃんかな、けなげだわ。

集英社文庫 2001

重松清 – とんび


重松さんがあとがきで書いているように、不器用な父親がでてくる物語。時代は僕がうまれるちょっと前ぐらいの感じ。まだまだ世の中不便だったけれど、だからこそ世界はもっと狭くて、人がもっと密接に関わっていて、「頑張ればよりいい明日がくる」と信じられた時代懐かしいというか、胸がちょっと詰まりそうになるほど、忘れていたいろんなものが思い出されてくるお話だった。

読み始めてからなんとなくタイトル知ってるような気がするなあと思っていたら、一昨年にNHKとかでドラマになったものだった。今、配役をみてみて、先に見ていない状態で読んでよかったなと。やはり字で読む物語は読み進むに従ってキャラクターたちのイメージが自分なりに出来上がっていくので(また、特にこの本の場合は、僕ぐらいの年齢の人ならば、イメージが重なるような人が子供時代に身近にいたんじゃないかな)、先に映像を見ない方がぼくは好きだ。映像でなにがしかの印象が先についてしまうと、キャラクターがどうしても俳優さんなどのイメージに左右されちゃいがちなので。でも映像作品はそれはそれでいいのだけれど(どうしても時間的制約があって、原作は原作って言う風になりがちなのが、ちょっと残念なところはあるけれど)。

ほんと、いらだつぐらいこの父 – ヤスさん – は不器用。照れ屋でちょっと意固地だから、素直に気持ちが言えない。こういう姿をみていて、僕も重なるところがあるのだけれど、それ以上に父を思い出した。父はどちらかと言えば器用な人だったけれど、自分の気持ちを素直にいうのはたぶんヘタだったとおもうな、似てるもんな。でもこのヤスさんの気持ち、そしてやってしまう態度、よくわかる。なんども「うんうん」と思ってしまった。仕方ないのよね、そういう風にしか生きられないから。でも不器用だけれど、気持ちは本当にまっすぐ。よく見ている人にはわかる。そんな人が昔は沢山いたような気がする。ぼくはそんな人たちに囲まれて育ったけれど、到底こんな人にはなれない、すごく憧れるけど。

そして子供への愛情。親がいるから子供がいる。子供がいるから親は親でいられる。でも親も昔は子供だった。そんなあたりまえのことをちゃんと思い出させてくれたこの本。ほんと重松さんって泣かせる。いや泣かせるというより、ほのかにあったかく嬉しく寂しい気持ちにさせてくれる。それは決して嫌じゃなくて、なんか、忘れていた大事な感じを思い出させてくれ、それがたとえつらいことであっても、それでもありがとうと思えるような。

子供のときは好きになれなかった親の駄目な一面でさえ、こうやって大人になると、懐かしく、感謝したくなるものになるのだ、ということを、また思い出した。そして気づくと自分もその同じものを持っていたりする。親から子へ、子からその子へ、こうやって受け継がれて行くものなのね。

角川文庫 2011

浅田次郎 – プリズンホテル【4】春

プリズンホテル、最終巻。季節毎に訪れることのできたこの物語もこれで最後。任侠もので売れっ子になった作家・孝之介。しかし彼はそれより恋愛ものを書きたがっていた。その彼の書いた渾身の恋愛小説「哀愁のカルボナーラ」が文壇最高の権威「日本文芸大賞」にノミネートされる。根っからのひねくれものの孝之介は記者に追いかけられるのを嫌がって、奥湯元あじさいホテル –  通称プリズンホテルへと逃げ込みそこで選考結果を待つ。それにくっついていく編集者や関係者の団体で賑やかな様相を醸すが、実は孝之介はノミネートのニュースが流れたとたんに姿を隠してしまった継母の富江が気になって仕方ない。

それとは別に同じ頃、ある手違いから52年の服役を終えてシャバにでてきた一人の老人がいた。彼は孝之介の叔父でありプリズンホテルのオーナーであり、関東桜会の顔役である正真正銘のヤクザである仲蔵のオジキにあたる博徒だった。行く宛のない彼は途中で偶然出会った月末の支払いに困る工場主を連れ、その足は昔教えられた宿、プリズンホテルへと向かう。そしてそこにまたしても偶然やってきた演劇に熱心に打ち込む母子、ホテル支配人の不詳の息子の担任などが集まって、今宵も名物宿のどたばたがはじまる。

いくつかのお話が並行して進んで行って、それがこの宿での出会いによってまとまって行く。今回も同じような感じだけれど、今回は演劇母子と先生の出会い、大学で同志だったものの再会、そして小僧時代の仲蔵とオジキの半世紀ぶりの出会い。そんな時間を超えたドラマに焦点があたっているよう。

そして一番の焦点はいなくなった富江、そして孝之介を捨てた母。その2人の間で孝之介はどう振る舞うのか?

***

孝之介を筆頭にして、へんてこな人間ばっかりがでてきて、おもしろおかしく読める、そんな小説「プリズンホテル」だけれど、実のところこうやって面白く思えるのは、登場人物たちがあまりにも必死で、一生懸命だから、というようなニュアンスを解説で中井さんは書いている。それを読んで、はたと気づく。まさにそのとおりだな、と。読者は小説の世界を上から(横から?)覗きながらその世界を楽しめるわけだけれど、このプリズンホテルを読んでいると、そこに出てくる人たちの姿が自分に、じゃあ君はどうなんだ?って問いかけているように思えてくる。「君はどうなの?一生懸命に生きてるの?」と。別に正しいとか間違ってるとかそんなことは関係なくて、何かにがむしゃらに頑張っているか?と。

曲がりくねったり、あちこちより道してしまうかもしれないし、間違うこともあるけれど、一生懸命にやってたら、やがて何か素敵なことがやってくる(かもしれない)、と思える/信じられるというのはなんて素敵なことなんだろう。そう信じられる人間がああやって頑張ってる姿はおもしろいけれど、でもやがてすごく羨ましくなってくる、というのは僕はそう出来ていないからだろう。

そう。読み始めたときに、なんでこんな根性曲がってんねん!と思った孝之介も、殴られるだけの情けない女・清子も、罵られるだけの継母・富江も、何も言わなかったという父も、酔狂なヤクザである仲蔵も、融通聴かない支配人・花沢もその息子も、黒田も、大曽根も、仲居の外国人のねーちゃんたちも、どの人も困ったちゃんなイメージしかなかったのに、読み終えた今となってはすごく親しい、身近にいる、ちょっとまぶしく羨ましい人たちのように見えてきている。そういう人たちの姿をこうも見事に、というか、あっけらかんと描いてみせる浅田さんにほんと感謝と拍手を送りたい。

ほんとこんな宿があったらなら、季節毎に訪れてゆっくり湯につかったり、怖いバーで呑んでみたりしたいな。とかくスマートに物をはこびたがる今の時代にはこんな時代遅れ(といったら失礼だけれど)な、人間臭さのある場所というのが、とても貴重で、懐かしい感じがして、実はちょっとうっとおしいなーと思うかもしれないけれど、飛び込んでみたらすごく暖かな世界であるということが分かるんだろう。いい話だった。ほっこり、うるる。

集英社文庫 2001

有川浩 – ヒア・カムズ・ザ・サン


わずか7行だけ綴られたあらすじ。それをある役者が「ここから有川さんがどんな物語を生み出すのか読んでみたい」と言ったことがきっかけでうまれた物語が2つ。「ヒア・カムズ・ザ・サン」と「ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel」。その7行とは

真也は30歳。出版社で編集の仕事をしている。
彼は幼い頃から、品物や場所に残された、人間の記憶が見えた。
強い記憶は鮮やかに。何年経っても、鮮やかに。
ある日、真也は会社の同僚のカオルをともに成田空港へ行く。
カオルの父が、アメリカから20年ぶりに帰国したのだ。
父は、ハリウッドで映画の仕事をしていると言う。
しかし、真也の目には、全く違う景色が見えた……。

このあらすじだけでいろいろ想像できてしまうのに、ここから有川さんがどんな物語を産むのか?ということを考えただけでわくわくする。読み始めたら没頭してしまい、あっという間に読み終えてしまった。そんなに厚くない冊子に2つの物語。これは登場人物や設定はだいたい同じだけれど物語として全然違うもの。

読み終わって最初にしたことは「あれ?これって有川さんの作品やったよな」と表紙を見直したことだった。そう、いままで僕が読んできた有川さんの作品とはどこか感触が違う。ひとつは単純に主人公がちょっと特殊な能力をもっているという設定自体のためだと思う(そんな感じのはまだ読んだことない)けれど、もっと違う感じがするのは、あの喩え方が悪いかもしれないけれど、まるで女子高生のような、甘アマ、とか、ツンデレ、ぽいのとか、そういう部分がぱっとは感じられないところか。でもそれが物足りないというわけではなくて、逆にシンプルにより深く、登場人物たちの感情を表現しているように思えた。

しかしほんと素晴らしい。この同じ設定をもつ2つの物語をこの長さで描ききった有川さん。どちらもアリよねーと思えて、いい結末。野郎と思えばもっとドラマチックな盛り上げ方もできるのに、そうはせずに適度なふくらみでじわっとした終わらせかたもいいなぁ。この2つの物語、どちらかというとぼくは上演された舞台をもとに着想を得たという「ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel」の方が好き。父娘関係、ひいては世の親子関係の描き方、年を食えばそのほんとの姿や変化が見えてくる、そこを気づかせてくれる物語がたまらない。解説で岡田さんも書いているように名台詞(?)のオンパレード。それが何かはここには書かないけれど。それらもすごくぐっと来たけれど、でもやはり有川さんの恋愛小説、いちばんぐっと来たのは父との別れの前の晩にカオルから真也に送られるメールのとこ。いいなぁ。あ、やっぱり有川さん、甘アマやなw

また知らない顔の有川さんに会えたようでうれしい一冊だった。

あと付け足しになるけれど、この本を手に取った最初の理由はタイトル。The Beatlesのジョージの名曲のタイトル。難しい言葉なんかなくて、シンプルに、人生の、生きていることの喜びを、そっと歌った曲。大好き。改めて歌詞を読んで本当にいいなと思った。そんなタイトルをつけた有川さんにありがとう(これはタイトルが先にあったのかな?それとも有川さんがつけたのかな、たぶんそうだと思うけど)。ちなみに、物語にこの曲のことは全く出てこない。そういうところも素敵(気づいてないだけ?)。もしかしたら勝手にビートルズの曲からなんだとぼくが思ってるだけかもだけど。

そういえば伊坂さんとの出会いも本のタイトルからだったな。同じくビートルズの「ゴールデン・スランバー」だった。こっちはポールの曲だけど、好きだなー。

新潮文庫 2012

東北ぶらり旅:その4 原発災害地について思う

(つづきです。長文乱文です。前のはこちら

たぶんこれが最後です。この文章も完全にぼくの個人的な見解というか、見て感じたことを書くので、不適切な表現があるかと思いますし、誤った部分もあるかもしれません。とくに被災された方々には失礼にあたることや神経を逆撫でしてしまうことがあると思います。でも、思ったことをそのまま書きたいと思います。あくまで個人の意見です。

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広い範囲に渡って生じた東日本大震災の被災地の中でも、この原発による災害を被った場所は、被災地ではなくて、被害地、と呼ぶべき場所になっていると思います。いろいろ見方はあると思いますが、ここに関しては完全に人的ミスによる被害です。もちろんその引き金となったのは地震や津波であることは間違いないですが、原発がそこに存在すること、そもそも原発という代物を選択したこと、それをもともと考えられた耐用年数を遥かに超えて使い続けた/使わざるを得なかったこと、という点では人的ミスによる被害といえると思います(もちろん震災当時の原発のコントロールミスもあったと思います。それは現場のコントロールもそうでしょうし、トップの判断ミスもでしょう)。一時”想定外”という言葉が世間を賑やかせましたが、すべてのことを想定するということは、人間にとってはかなり難しいことだと思います。が、過去に原発というものを必要あって選択した。それは誰が悪いというわけではないと思います。原発が日本に導入されようとしたとき、もちろんいろんな利害関係や野望、希望、必要があったと思いますし、誰もが少しずつ公益と利害をもってことにあたったと信じたいです(まったくの利権だけのために動いたとは思いたくない)。

でも結果的にいまは「帰還困難区域」と呼ばれているよくわからない名称の場所は無人の街となっていて、やはり無人の「警戒区域」や、住むことはできない「居住制限地区」、一応住めることになっているけれどほとんど戻ってくる人がいない「避難指示解除準備区域」などなど、地震や津波の被害は免れたのにいまだに住人が戻ることのできない/していない区域、これは被災ではなくて、被害なんじゃないでしょうか。

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今回の旅でほんと悔やまれるのは(他の地域での行き当たりばったりというのはとても良かったのですが)この原発被害にあった地域だけはちゃんと調べてから行動すべきだったということです。もちろんいまでも線量は他所の地域に比べては高い部分もあるようですので、長居することは危険だと思うのですが、もっともっと見るだけでいいから、南相馬や浪江町、できれば大熊町や双葉町なんかも通ってみたかったのです。うまくやれば福島第一原発だって見えるところにもいけたと思います。今回僕が通ったのはこんなルートでした。

root36

何も知らずに、とりあえず仙台から南下して、浪江町ぐらいまでいったら、どこかを通り抜けて(きっと迂回させられるだろうことはわかっていた)南側に出られたらいいなぁ、なんて考えてR6を南下していったのですが、結局は浪江町のはずれぐらいで行き止まり(許可ある車しか通れない)、また浪江町や双葉町自体が自治体として立ち入りを制限しているので、僕のようなよそ者は立ち入ることができずに、R6を戻って迂回路を探しましたが、上記の図のように、浪江町自体や警戒区域、帰還困難区域は通れないので(通り過ぎることすらできない)、県道258、県道34、県道12を通って南相馬から飯館村、川俣町に抜けました。もし浪江町を迂回するつもりなら川俣町からR349で二本松市、田村市を抜けて、R49でいわき市に出て、というルートしかなさそうです。細かい県道など通れたとしても必ずどこか立ち入り禁止のところにあたるので、かなり大回りする必要がありました。なので飯館村を走ってる時点ぐらいでもう16時ぐらいだったので、迂回して原発の南側に出るということは今回は諦めたのです。

でも、浪江町のほんの一部や、もともと警戒区域だった南相馬の南部分、今でも居住制限がある飯館村などを通って見た光景は異様な感じでした。言葉で説明するのは難しいのですが、いわゆる廃墟的なものではなくて、変な表現になりますが、SF的な、ある日街中の人が蒸発してしまった的な感じでした。それは地震で倒壊したり津波で流されたような建物はほとんどなく、しかも住んでいた人たちは避難したとはいえたまに戻ってきて手入れをする方もいらっしゃったり、除染などをしたために、建物も、田畑(これらは津波区域と同じように更地のような感じになっている)も牧場も荒れていないからでした。なので、街はきちんとしているのに人だけがいない、という不思議な状態で、それが異様さの一因であったと思います。大熊町や双葉町はもっと荒れたりしているのかもしれませんが(テレビでちょこっと見た)。

また南相馬の南側などで見ましたが、田畑や牧草地だったところを復旧するのに除染や、ほったらかしだったために生えて枯れたような草木を取り除く作業をしていましたが、取り除いたものってきっと低レベルの放射能廃棄物になるのでしょうから、集めてどこかで処分しないといけないのでしょう。この区域じゃない所だったら枯れ草なんて焼いてしまえばいいのに、それもできない。するとやはり時間や人手がかかってしまう。よって手をつけるまでに時間が経ってしまう、なんて構図になっているようにも見えました。(無論ある一定以上線量が高いと作業もできないのでしょう)

またこの色の着いている範囲の外側には線量も落ちてきて帰宅しても大丈夫な場所が増えてきているそうなのですが、そこに戻る人はかなり少ないそうです。どうしてかというと、例えば病院や商店といった生活基盤になるものが一緒に戻らないと生活できないですし、戻ったとしてもその方々が生業にしていた例えば農業とか林業などが立ち入れない区域内だったとすると仕事もできません。やはり街の大半が戻らない限り生活できないので戻れないということのようです。

じゃぁ原発の封じ込めや除染がすすんで、放射性物質の移動なんかが完全に押さえられたら戻れるのか、というと、なぜかそういう感じがしません(あくまで根拠のない感じなのですが)。たぶんまき散らされている放射性物質を完全に取り除くというのは困難を極めるだろうということと、実際問題としての原発の完全なる廃炉は計画はされていたとしても完全に見通しの立った作業工程ではきっとないだろうと思うからです。まだまだこの先にいろいろあるんじゃないかと想像してしまいます(無論関係する方々は日々ちゃんと考えてやってるんだと信じています)。ということは、ひどい話を想像してしまいますが、避難させられた方々は戻ってこられず、もし戻ってこられたとしたらそれは何代もあとの子孫なんじゃないかと思うのです。ということは誰一人もともとの景色を知っているものはいないという状態。喩えが悪いですが、「昔、戦争があったときに空襲でこの街は全部燃えてなくなったんだよ」とか「昔、原子爆弾が落とされてこの街は壊滅し、長い間放射能で苦しんだ人たちがいたんだよ」と同様に「昔、ここで原子力発電所の事故があって、長い間誰も住んでなかったんだよ」「へー、いつ頃のお話?」「お父さんのひいじいちゃんの時のお話だよ」というようなことになりかねません。すると、これはもう復興とか復旧ではなくて、また一から新しく街ができてゆく新興と呼んだほうがいいんじゃないかと思うのです。

もし本当にそんなことが可能なら(避難されてる人や、関係する人には全くもって申し訳ない想像なのですが)行政や事故を収束したがっている側は、この人が一度住めなくなった地域を(原発も含めて)全部壊して、一切合切削り取って何もない状態にして(そのどけたものをどこに持って行くかはさておき)、一から新しい町づくりをしたほうが楽だ、と考えてしまうんじゃないかと勘ぐったりします。誰もながい期間戻れない時期がつづいてみんな諦めてしまえばそれも可能になっちゃうんじゃないかとか思ったりします。「帰還困難区域」という名称は、戻りたいと切に願う人々の希望と、本当はすべて無理なんだということを隠蔽するための行政側の苦肉の策(最初から戻れないを前提にすると全責任とらねばならないから)の、思惑のはざまでつけられた名前のようにしか見えないです。

付け足しのようになってしまいますが、それでも線量が減って大丈夫になった地区に戻ってなんとか生活を元に戻そうとしている方もおられます(区域の境目ぐらいにちらほらみられた)。そんな方々が早くもとの生活ペースに戻ることを祈るばかりです。

帰還困難区域って?@浪江町
帰還困難区域って?@浪江町

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ぐちゃぐちゃ書きましたが、僕の感じたことは、この原発事故の被害が及んでいる範囲は容易には元に戻らないだろうな、ということでした。それも10年20年というレベルではなくもっと長い期間かかるだろうなと。ということは僕たちはその結果を知ることはできないかもしれないのです。そう感じたのが、この区域に感じた怖さだったのかもしれません。

未だにこの区域のことは腑に落ちないというか、自分でもどう感じているのか自分ではっきり分からないです。また行くと違う感想を持つかもしれません。なので早くもう一度行きたいです。そして時間をかけて見て、どう思うのか、どう感じるのか、知りたいなというのが、今の僕の心持ちです。

2014.3.9 たけい

 

 

 

東北ぶらり旅:その3 津波被害について思う

(つづきです、長文駄文。前のはこちら

その1、その2とただ単に旅の記録を記しましたが、書きたかったのはここからです。ここからはかなり僕の偏見というか僕の視点から感じたことになるので、もしかするとあまり正確でなかったり不適当な表現があるかもしれませんが、そこは容赦ください。あくまで個人の意見です。

見たり聞いたりして感じたことをそのまま書きます。うまくまとまるかは分からないですが。

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今回の旅はへんな表現になりますが、とにかく震災を実感しに行くということが目的でした。少なくも神戸の震災を経験した人間(だけではないです。他にも大きな地震がありました)には地震の恐さは理解できることです。が、津波となると全く想像がつかないです。3年前の3/11にテレビの画面に映し出されていた状況、すなわち、木の葉のように翻弄される大きな船舶だとか、壊れてゆく大きな構造物、家が家をつぶし車が団子のように固まって流れて行く様子、田畑を生き物のように這って行く水流、神戸の震災を思い出させるような大きな火事、などなど、すごいとしか言いようのないそれらの映像は、その内容は理解できるけれど、目の前でみたらどんな感じがするのか、またはもしも自分の身に起ったことだったらどう感じるのか、なんてことは画面を通しては到底わからないものです。

そしてもう3年経ったというのもあるし、とくに被災地から遠い関西にはごくごく限られた情報しか入ってきません。またメディアを通して伝えられる情報も大きなトピックは伝わってきても、細々としたことは打ち捨てられているはずで、一体全体がどうなっているのかは知りようがありません。特に取り上げられたような南三陸とか陸前高田、大船渡なんていう地名は聞いたことあっても、それらがどんな場所で、どれくらいの大きさで、どんな位置にあって、なんてことは知りもしません。地図上で位置を知ったとしても、東北の地理に疎い西の人間にはどれくらい離れた場所なのかもわからない、という、分からないことづくめです。

今回車で行ったのもその広さが分かるかなーという安易な考えからでした。その1、その2で書いたように結局岩手の宮古市から福島の浪江町までの海岸沿いを走ったことになるのですが、だいたいの距離は340キロぐらいです。340キロというと大阪から広島ぐらいです。もしくは東京―名古屋間ぐらいです。僕が見た限りこの340キロの沿岸の海岸はすべて津波で流され更地になっていました。海に近い場所だけでなく、広いところなら海から2〜3キロなんて普通、大きな川沿いだと10キロ以上奥まで、小さな入り江はほとんど全部、です。僕は想像できないです、大阪から広島まで沿岸がずーーーっと更地になってるというような状態は。でも東北はそんな状態です。瓦礫が片付いただけ。そして上記したような被害の大きかった南三陸とか陸前高田という場所以外にも、岩手や宮城の北半分のリアス式海岸になっている所では、へこんでいるところが入り江になっていて小さな集落がある、という場所が無数にあります。それらがことごとく同じように何もない状態になっているのです。そんな場所も南三陸も同じように被災しているということは想像できたかもしれないですが、実際は知らなかったです。大きく報じられた場所だけでなく、同じようなことが無数に、しかも広範囲にわたって起きたんだ、ということを遠い場所にいる人間も知らなければならないと思いました。

今回走ったところ
今回走ったところ

大阪ー広島
大阪ー広島

実際走っていて、リアス式海岸のところ(岩手宮古〜宮城女川あたり)は入り江になるたびに更地が広がり、丘の部分には復旧用の資材があったり現場の基地があったり、残った集落があったり、というのの繰り返しで、それらを見続けていると「ああ、またか」「あ、ここもか」「ここも」「・・・」と、どこを走ってるのか分からなくなりそうなくらい感覚が麻痺していきました。そして仙台から南のゆるやかな海岸線の部分(仙台あたり〜浪江町)は、海岸から広いところでは5キロ以上、狭いところでも1キロぐらいの幅で延々と枯れた立ち木と草ぼうぼうの更地が続いてる状態でした。もともとは田畑だったと思うのですが、この広大な土地(というか平地のほとんど全部)が塩害になっているはずで、農地に回復させるためにはある程度掘り起こして塩が入った土をどけ、津波対策のために土地の高さをある程度かさ上げするためにまた土を盛ってやって、そこからようやく田畑を作り直さねばならないんじゃないかと思うと、もう呆然としてしまいました。もし自分がやると思うと途方に暮れてしまいます。(それでも現場の人たちは黙々と作業されてます)

そして(これはちょっと文句?になるかも、だけど)その仙台以南の海岸線は津波対策のための大きな防波堤が作られて行ってるのですが、仕方ないことなんだと思いますが、もう、まるで色気がないというか、味気がないというか、(農地が回復した後だったとして)もう今後は緑ゆれる田畑の向こうに海は見えないのです。遠くに海の青い色が見えて、草木は萌え、風鈴が揺れる軒下でスイカ食べる夏、みたいな風景はなくなるようなのです(想像ですが)。でも、仕方ないこと、なのですかね。。。

延々と続く建設中の防波堤
延々と続く建設中の防波堤

本当に津波が及ぼした被災範囲は広範囲すぎるなと思いました。しかも津波の被害がでたのは僕が走った部分の倍ぐらい(青森のおいらせ町から茨城の大洗町ぐらい)あります。実際に走って目にしてないところは想像ですが、どこもきっと似たような状態でしょう。そして復興/復旧作業はまだまだ、ほんとにまだまだ、のようです(いろいろ決まり事的なことがあるのだと思いますが)。新しく家が建ってる場所はまだわずかで、宅地も田畑もほとんどそのままです。何よりもまず道路、そして大きな産業については優先して復旧していってるようですが、個人的なものはまだまだで、一体いつになるのかというのもわからないようです。

現時点でも27万人を超える方々が避難生活を送っているそうですが、H27年度を目処に震災復興住宅(というような名前だったか)への移住が計画されているそうです。が、それもまだまだどうなるかわからないそうで、ある方に聞いたのですがが津波で家を流され仮設で暮らしている人(結構高齢だそう)が「仮設で死ぬのは嫌だ。せめて復興住宅まで頑張りたい」と言っているそうです。ぼくは幸いにも仮設暮らしは経験しませんでしたが、建ち並ぶ沢山の仮設をみて、しかも東北の冬は寒いですから、はやくその計画が進んだらいいのになと思いました。

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走り回るだけではなく、印象的な風景に出会ったときは足を止めてじっくり眺め、写真を撮ったりしていたのですが、どう頑張ってもそこで見たものを写真などに写し取ることができませんでした。僕は別にカメラマンではないので上手く写せないのは当然なのですが、単にその場所の広さや雰囲気だけでもいいから他の人に伝えるための写真でいいのに、それすら撮れなかったです。あまりにも対象が広大で圧倒的すぎて。

陸前高田
陸前高田

陸前高田の諏訪神社の階段から撮った写真を繋いでみましたが、ぜんぜん分からないですね。ここで左右2キロ弱、奥行き2キロ弱あります。全部更地になっています。実際に見ていると果てしなく広い土地のように見えました。そしてこの目線の高さ近くまで水面が来たのです。この見えている景色が全部海中に没した、というのは想像できる範囲を超えてしまいませんか?

次は気仙沼の本吉地区です(海際にぽつんと建物が残っていた場所)。車を中心に180度ぐらいを撮ってみました。この場所で3キロ四方ぐらいです。

気仙沼 本吉地区1
気仙沼 本吉地区1
気仙沼 本吉地区2
気仙沼 本吉地区2
気仙沼 本吉地区3
気仙沼 本吉地区3

漠然と広いことは伝わるかもしれないですが、あの荒涼とした感じは全然でないです。

もうひとつ、南相馬の浪江町に近いあたりの小高区です。R6から撮影しているのですが、ここで左右は3キロぐらい、奥に見えるこんもりしたところ(貴布根神社がある)までは2キロほどです。ここは全部畑だったようですが、多分津波のときそのままという感じです。

南相馬 小高区
南相馬 小高区

ここもその津波の後にそのまま打ち捨てられた感がものすごかったのですが、それは写しとることができないような類いのものでした。

まぁ、カメラの性能とかもちろん僕の腕とかもあるのですが、やはりこれらの場所で感じた感覚はその場所でしか感じられないような種類の感覚でした。写真は意味は伝えられるけれど、感じたことは、この雰囲気というか空気感というか(もしかすると阪神大震災の時もそうでしたが、あの空気のなかに混じっている通奏音のようなノイズの音)が大きく影響しているのかもしれません。がらーんとしていて、かつ、非常時であるという感じ。これはやはり現地にいかないと感じられないことだと思います。

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少し話が横に逸れますが、まだまだ瓦礫を片付けるとかいうような肉体的なボランディアも必要だと思いますし、物資的/金銭的な支援ももっと必要だと思います。が、今後もっと大事になるのは心を通わせることなんじゃないかと思います(当たり前と言われそうですが)。「絆」などという字を旗印にして大きなムーブメントを作り出したり、イベントを組んだりするようなこともとても大事ですが、たまにある大きな動きより、今もっと必要なのは小さくていいから常に存在して持続するようなことなんじゃないかと思います。もちろん被災地の人に直接会ったり、例えば仮設住宅を訪問したりするのが一番いいかと思いますが、もっと簡単なことが「忘れないでいること」、つまりは「みんなが思っている/心を注いでいるということを、現地の人たちが感じていられる状態を続けること」なんじゃないかと思います。どんな災害でもそうだと思いますが。阪神大震災を経験した方々は思い出して欲しいのですが、1月の地震のあと、例えば僕の住んでいたところだったら電気はようやくきたけれど水もガスもまだまだという3月に地下鉄サリン事件があって、世間の注目が(とくにメディアが)そちらに一斉に向いてしまったとき、自分たちのことが忘れられたような気がして寂しく感じませんでしたか?僕はそうでした。別に大きく注目され続けたいというわけではないけれど、忘れられたのかなと感じるとつらいです。復興が完了したりしていれば別ですが、まだまだ先も分からない時期だとそう思ってしまうものなんじゃないでしょうか。

阪神大震災のときも3年という時点はまだまだという感じでしたが、今回訪れた東北の場合は、まだ全然、という感じです。ぐるっと巡ってみて「なにか目処ってついてるの?」と思うぐらい復旧というか復興は進んでいないように見えました。ただこれは物理的にあまりにも対象が広大だからというのと、圧倒的に手が足りないからのようです(津波体験館で話してくれた館員さんもそう言ってました)。行くまでは「物資/人員をどっさり投資して、ちゃっちゃとやればいいのに。きっとどっかの頭悪い組織が利権かなんかでぐずぐずしてたりするか、どっかケチってるかサボっているに違いない」とか思っていましたが、現場はすごく頑張ってるなと思いました。しかし対象があまりにも巨大すぎるようなのです。これは行ってみないとたぶん感じられなかったことです。

とにかく現地にいってみるこが一番だと思います。別にボランティアじゃなくて、単に旅するだけでもいいし、僕のように興味本位で見て回るのでもいいと思います。いい観光地もあるし(松島楽しかった)、美味しいものもたくさんあります。積極的にその土地の人と交わったりしなくても、飲み食いしてみたり、うろうろするだけでも何かの足しになると思いますし、おのずとそこで現地の人と話す機会もできる(結構話し好きの人多そうな感触しました)でしょうし。会計のときとかに「美味しかったですー。神戸から来たんですよー」と言うだけで相手の方も「そうなんですか、どうもです」なんて感じで話に花が咲くこともありましたし、なかったとしても「あ、他所からきてるのだな」と伝わるでしょうし。

で、僕のように感化されて、行ってみたり、こうやって書いたり、周りの人に伝えたりする人も増えれば、思い出したり、思い続ける人も(そのチャンスも)増えて、「忘れないでいるよ」という見えないかもしれないけれど大きな力が伝わって、被災地の人も少しは安らいだり元気がでたり頑張ろうと思ってくれるのではないかなと思います。

****

今更ながらようやく実感しましたが、僕が今回この旅をするきっかけとなった、ある人に言われた「とにかく行ってみたら分かるから」という言葉は、ほんとに全くその通りでした。 津波という経験したことないことがらとその被害の大きさは行かないとわかりません。また行けばきっと少しでも被災地の役に立てると思います。とにかくチャンスがあればぜひ訪れて、そして見聞きしたことを周りの人に伝えることが大事だと思います。僕もチャンスあれば(もしくはまた作って)行きたいと思っています。

やはりとっちらかした、まとまりのない文章になってしまいました、すいません。。。

つづく

 

東北ぶらり旅:その2 あらまし(後編)

(長文駄文です。つづきです。前のはこちら)

[3/5]

残念なことに天気は雨でした。この日も北上するつもりだったのですが、天気予報によると岩手県は全面的に雪。一応備えはもってきてあるのですが、雪道となると極端に行動力が制限されるし、下手をすると突然の大雪により閉じ込められる可能性があるわけで、どうしようか悩みどころだったのですが、山間部はともかく沿岸部は雪には強いだろうという予想のもと、駄目になりそうだったら引き返すと決めて、出発しました。

ところが予想に反して天気はずっと雨のままでした。しかも北国は道路も積雪や凍結の対策もしてあるので、少し安心です。まずは震災当日の火事の様子が印象に残っている気仙沼港へ。建物が建っていたであろうところはまだ更地や更地前の場所も多かったですが、逆に既に建て変わったもの(海鮮市場とか)や建設中のものもいくつかあり、船も結構着岸できるようになってるようでした。が、港の一番奥の部分は建物が流されたまますべて空き地になっているような状態でした(その一角にヴァンガードがある)。

そのまま北上しまずは陸前高田を目指したのですが、宿を出るときにたまたま手に取った唐桑半島にある「津波体験館」という施設のパンフレットが気になったので、一度逸れて唐桑半島の先にある施設へ。水曜日でしかも雨ということで、見学者は僕だけ。なのでゆっくり見せてもらいました。もともとからあるビジターセンターの常設展示はこの唐桑半島に関するものだったのですが、いまは半分ほどが震災の写真になっていました。ちょうど今朝いた気仙沼市街地の写真がたくさんあったので、先ほど見た景色(もう片付いた状態)と当時の状態を照らし合わせながら見ていると、館員のおばさまが話しかけてくださり(近所の方だそう)、写真をいろいろ説明してくれました。神戸のときもそうでしたが、実際に体験した人から聞く話はほんとリアルです。

で、その目的としていった津波体験館ですが、、、、怖かった!(地震とか、恐怖がまだまだ体から抜けないです)

その後ついでに同じ半島内にある名勝 折石を見に行ってから半島を出て北上し、陸前高田へ向かいました。昨日は気づかなかったのですが、今日はあちこちの丘が拓かれていたり、削られていました。木材を確保するというよりは、高台に新しく住居地をつくるためか、埋め立てのために(低い土地はかさ上げすることになってるらしい)土を運ぶためのように見えました。

カモシカに遭遇♪
カモシカに遭遇♪

折石
折石
山を削っているところ多し
山を削っているところ多し

そして陸前高田。たまたままた道を間違って(ナビはないので、地図と目でみて走ってるのです。が、こうやって間違うことにより思わぬものに出会えることが多いです)しまったのですが、たまたま地図を確認しようと停まったところに諏訪神社がありました。津波のときに近所の人が逃げた場所です。高台への階段の途中も流されて仮設になっていましたが、その流された部分のさらに上(ビルだと5階ぐらいに感じた)のところに東日本大震災時の最高水位が記されていました。こんな高さまで海面がくるとは、全く想像できないです。そしてここから眺める陸前高田の平野。こんな広い土地がすべて流されたとは、、、想像を絶します。

諏訪神社@陸前高田
諏訪神社@陸前高田

陸前高田1
陸前高田1

陸前高田2
陸前高田2

陸前高田3
陸前高田3

陸前高田4
陸前高田4

そしてそのまままた北上し、ほどなく大船渡へ。ちょうどお昼になったのでふと見つけた「まんぼう亭」というお店でお昼ご飯。三陸めかぶ三色丼、めちゃ美味しかったです。この辺りは高台なので何も感じませんでしたが、港に降りるとやはり同じ光景。ここは防波堤の設置などが始まっていました。まだ水門など壊れたままの施設もありましたが。

三陸めかぶ三色丼♪美味かった
三陸めかぶ三色丼♪美味かった
大船渡商工会議所
大船渡商工会議所
高い防潮堤@大船渡
高い防潮堤@大船渡

ここからはR45とそのバイパスを使いながらどんどん北上。小さい入り江がつづくのですがどこも同じような状態。入り江は更地で護岸工事や土地の掘り返しなど。丘の部分は削られていたり、工事作業用の資材置き場や事務所になっていたり(ちょうどいまとぎれとぎれになっているバイパスは三陸自動車道となるようで、その工事もあるのかも)していました。釜石を越えていくころになると、どこも似たような景色でどこがどこだかわからなってくると同時に、気温が下がってきたのか雪こそふらないけれど海上も山の上も濃い霧(か、もや)がかかってきて視界は悪くなってきました。宮古市が近づくとJR山田線と並走していくのですが、線路がまったく使われていない状態だったのが寂しかったです。

で、ついに宮古到着!距離的にはそんな走ってないのですが、この時点で既に15:30頃。ここまできてさてどうするか?と考え、実はNHK朝ドラマ「あまちゃん」の舞台となった久慈にはあと80キロぐらいで是非行きたいとおもったのですが、着いた頃には暗くなっているだろうことと、久慈からはどこに出るにも遠い(最終的に今日は仙台に戻っておきたかった)ので泣く泣くあきらめて、せめての土産(?)にJR宮古駅と(そのドラマで出てくる北鉄のモデルとなった)三陸鉄道北リアス線を眺めてから、宮古を後にして盛岡に向かいました。

ここも知らずにいったので、結果的オーライでよかったのですが、宮古〜盛岡を結ぶ106号線はすごく高地を走っているため、雪がふったり、日没を迎えるとぐっと気温が下がって凍結の恐れがある道だったのですが、幸いにも両方とも見舞われることなく盛岡までいけました。だいぶ日が傾いてから走ってたのでよくわかりませんでしたが、この雪の時期の晴れの日にここを通ると景色綺麗で気持ち良さそうです。

R106の道の駅
R106の道の駅

そして夜の盛岡に到着。初めて来たのですがその大都会ぶりにびっくり。しかも北のほうなのに仙台より雪がない。だいぶ疲れたのもあってどこかで一休みとおもって調べてみると、駅からほど近い開運橋のたもとに「ジョニー」というジャズカフェがあるのが分かったので、早速そこに。昨日と同じパターン(笑)。実は陸前高田に同じジョニーと言う姉妹店があるのですが、そちらには寄れなかったので、ちょうどよかったです。

コーヒーのんでくつろいでいると、ママさんが話しかけてくださり、そっからマスター(つまりジョニーさん)ともいろいろ話を。ママとは彼らが大好きな秋吉敏子氏の話や一関のベイシーのマスター菅原さんの話などなど。えらく盛り上がってすっかり長居してしまった。めちゃ楽しかったです、ありがとうございました > マスター&ママ。そして腹も減ったので盛岡名物 冷麺を食べて仙台へ戻ったのでした。

盛岡 開運橋のジョニー
盛岡 開運橋のジョニー
「肉の米内」の冷麺
「肉の米内」の冷麺

[3/6]

昨夜は寝るのが少し遅かったので、起きてからもしばらくぼーっとしていたのですが、今日はこの旅路のクライマックスかもしれないので頑張っておきて朝ご飯を食べ、まずはおととい連絡とれなかった叔父に連絡。調べてみるとすぐ近所だったので早速会いに行く。叔父そしていとことはもう15年以上ぶり。叔母とは父の葬儀のとき以来。飼い犬のシーズーのチャッピーを囲んでとりとめもない話を。なんだか懐かしい雰囲気だった。堺に住んでいた頃はこういうことよくあったのになぁ。最後にお祈りをしてもらい(牧師一家である)出発しました。

今日は逆に一路南下、目指すは福島の南相馬。津波だけではなくて原発の被害もちょっと見てみたかったのです。

仙台を抜けて 名取市を通り、亘理町に入った辺からR6を離れて海沿いの県道へ。ちょうど津波が押し寄せた部分の真ん中ぐらいを通る道だったようで、周りは瓦礫こそないものの、すべてそのままの状態。長くゆるやかにまっすぐつづく海岸線は高い防波堤があちこちで造られている途中でした。ほったらかしになっている更地は乾いて砂埃が立ち、日本ではない他所の国を見ているようでした。

どこの国?
どこの国?
防波堤工事
防波堤工事

その道は県境で終わりだったのでまたR6にもどって福島県相馬市へ。途中でおいしい蕎麦を頂いて、やがて南相馬市へ。相馬もここ南相馬も沿岸部は津波に押し流されているのがありありとわかる感じでしたが(大半が田畑のようでした)、南相馬のあるところから突然様相が変わりました。そこまでは今まで見てきたのと同様、更地になっているか、その作業をしているところだったのですが、その南相馬の途中からはほぼ震災の時のままで、壊れた建物も流されたものものもそのままのように見えました。するとほどなく浪江町に。そう、さっきの南相馬の途中からは居住制限地区や避難指示解除準備地区で、人がいられない地域だったようです。

そのまま@南相馬
そのまま@南相馬

そしてその浪江町は様相が一変してゲートと出入りをチェックする警備員、そして出入りできる車両だけが行き来できる地域でした。あまりの様子の変わり用に僕も軽くパニックというかどうしたらいいか分からないような状態になり、結局はそのR6も双葉町の手前までしか行けず、右にも左にもいけないために(国が決めた規制以外に、浪江町自体が自治体として立ち入りを制限している)向こうに行くにも、郡山の方へ抜けるにしても、浪江町を通らないルートを通らねばならないので、だいぶ後戻りさせられ、結局飯館村、川俣町を抜けて福島市にたどり着きました。本当は浪江町をぐるっとまわって南側からできれば福島第一原発を眺めたかったのですが、峠道ばかりだし、もう夕刻になってきていたのであきらめざるを得なかったです。

しかし、その浪江町自体や南相馬、飯館村の制限されている地域にすごく異質な感じをうけました。一見するとすごく普通のまま(地震で壊れた建物もほとんどないし、除染のためか畑なども綺麗に更地になっている)なのですが、人が誰一人いない。例えば過疎で廃村になったようなところだったらもっと街自体が荒れてたりするのでさほど不思議な感じはしないのですが、通った場所はどこも綺麗なのに人がいない、すごく変な印象でした。この印象が人がいないということだけではなく、一体なぜなのかずっと考えながら車を走らせました。

帰還困難区域って?@浪江町
帰還困難区域って?@浪江町

福島市についたとき実は相当へとへとになっていました(考えすぎたか?w)。今日もいい店があったらクールダウンするために入れたらなーと考えていたのですが、見つけたお店はまだ開店前。時間をつぶしてからとも考えましたが、明日には帰宅しておきたかったので(しかも天気が悪くなりそうな感じだった)、その足で出発することにしました。往路のようにちょっと休んでから夜中に出るというのもだいぶ考えましたが、万が一大雪にでもなって出発できなくなったら(案の定えらく雪が降る夜になった)困りものなので、さっさと出発。福島西から東北道に乗り、いきなり雪に見まわれ、往路と同様磐越道は規制されていたので同じルートで帰ろうかと思っていたら、長野道の一部も規制がかかったため(北関東道を通ってるときに分かった)、関越道で鶴ヶ島まで戻り、さらに圏央道で八王子まで出て(なにがうれしくて東京都までいかねばならないのやら)、そこから中央道で帰るルートになりました。

飯館村通過中
飯館村通過中

でも昼前からずっと走ってるわけですからかなりくたびれていて、山梨や諏訪湖辺り、そして小牧あたりで仮眠をして(どこも寒かった。でも車に毛布を積んでいたので助かった)結局は3/7のお昼に帰宅したのでした。あー、長かった。でも意外と疲れてなかったです。

***

とりとめなくざーっと4日分のあらましを書きました。結局4日半、走行距離は(あまり頼りにならないメーターによると)2,900キロ余りでした。我ながらよく走ったなー(そして車も!)と思います。

津波で被災した地区はまた機会があれば訪れられたらと思いますが、原発の被害にあったところにはもう一度行きたいです。まだこれを書いてる時点でももやもやするこの気持ちをもっとはっきりさせたいです。

あらましはここまでにしますが、津波とか原発被害について思うことをまだつづけて書きたいと思います。

つづく