重松清 – とんび


重松さんがあとがきで書いているように、不器用な父親がでてくる物語。時代は僕がうまれるちょっと前ぐらいの感じ。まだまだ世の中不便だったけれど、だからこそ世界はもっと狭くて、人がもっと密接に関わっていて、「頑張ればよりいい明日がくる」と信じられた時代懐かしいというか、胸がちょっと詰まりそうになるほど、忘れていたいろんなものが思い出されてくるお話だった。

読み始めてからなんとなくタイトル知ってるような気がするなあと思っていたら、一昨年にNHKとかでドラマになったものだった。今、配役をみてみて、先に見ていない状態で読んでよかったなと。やはり字で読む物語は読み進むに従ってキャラクターたちのイメージが自分なりに出来上がっていくので(また、特にこの本の場合は、僕ぐらいの年齢の人ならば、イメージが重なるような人が子供時代に身近にいたんじゃないかな)、先に映像を見ない方がぼくは好きだ。映像でなにがしかの印象が先についてしまうと、キャラクターがどうしても俳優さんなどのイメージに左右されちゃいがちなので。でも映像作品はそれはそれでいいのだけれど(どうしても時間的制約があって、原作は原作って言う風になりがちなのが、ちょっと残念なところはあるけれど)。

ほんと、いらだつぐらいこの父 – ヤスさん – は不器用。照れ屋でちょっと意固地だから、素直に気持ちが言えない。こういう姿をみていて、僕も重なるところがあるのだけれど、それ以上に父を思い出した。父はどちらかと言えば器用な人だったけれど、自分の気持ちを素直にいうのはたぶんヘタだったとおもうな、似てるもんな。でもこのヤスさんの気持ち、そしてやってしまう態度、よくわかる。なんども「うんうん」と思ってしまった。仕方ないのよね、そういう風にしか生きられないから。でも不器用だけれど、気持ちは本当にまっすぐ。よく見ている人にはわかる。そんな人が昔は沢山いたような気がする。ぼくはそんな人たちに囲まれて育ったけれど、到底こんな人にはなれない、すごく憧れるけど。

そして子供への愛情。親がいるから子供がいる。子供がいるから親は親でいられる。でも親も昔は子供だった。そんなあたりまえのことをちゃんと思い出させてくれたこの本。ほんと重松さんって泣かせる。いや泣かせるというより、ほのかにあったかく嬉しく寂しい気持ちにさせてくれる。それは決して嫌じゃなくて、なんか、忘れていた大事な感じを思い出させてくれ、それがたとえつらいことであっても、それでもありがとうと思えるような。

子供のときは好きになれなかった親の駄目な一面でさえ、こうやって大人になると、懐かしく、感謝したくなるものになるのだ、ということを、また思い出した。そして気づくと自分もその同じものを持っていたりする。親から子へ、子からその子へ、こうやって受け継がれて行くものなのね。

角川文庫 2011

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