東北ぶらり旅:その1 あらまし(前編)

(長文駄文です)

この3月の最初の一週間が休みになった(というか前からなるのがわかっていました。というか、僕らの仕事は結構他人頼りの部分もあるので、空くことはよくあるのですが、こんなにまとまって空くのは初めてかも)ので、何かしようか、どこかに行こうかなどと以前から考えていたのですが、やはり東北の震災から3年になることだし、久しく東北はいってないので行くのはいいかもしれないな、とはなんとなく思っていました。でも、僕はほんと腰が重いので考えるだけで実行しないなんてことはままあるのです。

演奏で震災のチャリティーなんかはやっていても、ボランディアはやれるタイプではないし、何かきっかけ(言い訳ともいう)がないとなかなか東北は行くチャンスがないということと、以前から「なんでもいいからとにかく一度行ってみてほしい。行くだけでいいから」と何人に言われていたこともあり、ようやく「じゃあ行ってみるかな」とは思いました。しかし前日ぐらいまでまだ迷っていたりしました。でもこれから先こういうチャンスが来るのを待っていたら、一体いつになることやらわからないので、腹くくって行くことに決めました。しかも車で。車で走って行くというのはこの時期には無茶なのは分かっていたのですが(それでも相当ナメていたとは言われても仕方ないです)、折角行くのであればいろいろ実感したかったのです。東北は飛行機などでいくべき場所ですが、走って行くことにより、そこで使う体力や時間によってその遠さや大きさが実感できるはずと思ったのと、現地では車のほうが何かと便利(行くなら、行けるだけいってやろうと思っていた)だろうと考えたのでした。

そこで、20代前半のときの頃によくしたように、まったく計画なしに(行き当たりばったりともいう。要するに細かく計画するのが性に合わない、というか面倒なのです)とにかくまずは仙台を目指そうとだけ決めました。仙台にはずいぶん会ってない叔父叔母といとこがいますし、ぼくの大好きな次ちゃんが住んでいる、彼らに会うというのもとりあえずの目的(すわなち自分への言い訳)になりますし。あと高速料金や体力的なこと(一人旅だし)を考えてると、夜走りするよりは昼のほうがいいだろうと考えたのでした(これが結局正解だった)、

[3/3]

早朝3時過ぎに出発(4時までに高速に入ればETCの深夜割引が適用される<5割引)し、距離的には東京回りのほうが有利なのですが(都市高速をいったん通ることになる)余分に経費がかかるため、当初は名神〜北陸道〜磐越道(大好きな猪苗代を通る!)〜東北道というルートを想定したのですが、結局は磐越道が降雪の為に規制がかかり、これを避けるため、名神〜中央道〜上信越道〜北関東道〜東北道という少し遠回りですが一度も高速降りないルートで行くことにしました。

そんなにスピードは出さないので、のんびり走っていくと、米原過ぎて夜明けが、中央道途中で朝ご飯を食べ、初めて通る上信越道で雪景色にみとれ(面白い山が多いのですねぇ)、群馬〜栃木という一回も足踏み入れたことない土地を通り、東北道に入って宇都宮あたりで昼ご飯を。その後そのまま仙台に16時過ぎに到着することができました。どらぷらなどだと10時間かからないと表示されるのですが、まぁこっちは人間でのんびりなので14時間ぐらいかかっても仕方ないですよねw

面白い山!
面白い山!

とりあえず仙台駅までいって(2006年のMiceteethツアー以来か!?)適当な安宿をとり、いとこに連絡を取ったのですが繋がらなかったので、次ちゃんに「呑みにいこう」と連絡すると二つ返事でOKだったので、待ち合わせ時間まで一休みして出かけました。呑みに行ったのはベースの高瀬さんに紹介してもらったMONDO BONGOというお店で、マスターちゅうさんの趣味もあってか音楽好き人間が集まる謎の店なのでした(だいたい看板出てなくて場所わからない)。しかしこれがとてもいい店で、呑んで食べて楽しい時間を過ごすことができました。お店にくる客くる客みな知り合いになっていくような感じで。いきなり仙台にうれしい立ち寄りスポットが出来ました。でも明日からのこともあるので呑みはほどほどにして、日が変わらないうちに次ちゃんと別れたのでした(いろいろ今後のこと楽しみ)。

次ちゃんと
次ちゃんと

[3/4]

今回の旅は被災地を見て周りたいというのが一番の目的ですが、そればかりだとあまりにもとシリアスな旅になってしまうので(きっと耐えられないと思います)、適当に面白いもの見たり、美味しいものにありついたりしながら北を目指そうと何となく思っていたのでした。なので朝起きてからまず仙台の一番の偉いさんといえばこの人でしょ、という正宗公(違います?)に会いに行き(東北大学ってここにあったんですね。めちゃいいキャンパス!)、そこから15年前くらいにも行った松島へ。そのとき乗らなかった遊覧船にのり(こういうのん好きなのです。観光地に必ずひとつはあるアナログな乗り物。ロープウェイとか。アナウンスが昔のままだったら最高!でも松島のは新しくなってた)、島を見るより海猫の獰猛さにコーフンしてたのでした。

正宗さん
正宗さん
海猫フィーバー
海猫フィーバー

松島を後にしてすすんでいくと、景色は変わり唖然とする光景が目に入り始めました。海岸から奥に向かってすごく広い土地が更地になっていました。がれきが撤去されてしまうと、もともとこういう場所だったように見えてしまったりしますが、田畑の跡があったり、建物の土台部分だけあったりするのを見つけると、ここに町などがあったんだなと分かります。たまたま奥松島あたりで間違って入ってしまったところの道沿いにあった掘ったて小屋のようなお店で昼ご飯を(カキフライが美味しかった)。どうやら津波で流されたけれど再建したそう。でもあるのはこのお店だけで、まわりは更地で、海際に大きな建物が2つ残ってるのみでした。

その後、さらに東松島や石巻あたりにすすんでいくとまた広い更地が。たぶん普通の住宅はほとんどが流されたのだと思いますが、工場や大きな鉄筋の構造物なんかはたまに残っていたりしてその惨めな姿をさらしたままになっていました。少し内陸にいくと住居もたくさん残っているのですが、その合間に壊れた建物がそのまま放置されていたりもします。また、更地になった場所にはどんどん家も建っていっているのですが、草ぼうぼうの更地にぽつぽつと新築の家ばかりが建っているというのは、不思議な光景でした。

遠くに廃墟
遠くに廃墟
きっと小さな街角だったはず
きっと小さな街角だったはず

そしてそのあと女川町へ。ボランティアをやっている土井さんから教えてもらった女川町医療センターに行ってコーヒーを。ここは高台にあって街が一望できるので、女川町が街ごとごっそり流されているのがわかりました。瓦礫はほとんど片付けられていましたが、まだ倒れたままになっているビルが残っていたりも。港湾地区はいち早く修復していっているのか船舶が着けるようになっていました。

そのまま半島をぐるっとまわって北上川河口付近へ。この辺はぜんぶ田畑だったようですが、津波をかぶったためか、農地を掘り返す作業があちこちで行われていました(川の護岸工事かもしれないですが)。それにしてもその土地の膨大な広さといったら。ちなみにこの川の上流15キロぐらいのところで大川小学校の事件があったそうです。

ここからさらに海沿いをまわっていく時間かかるようなので、山を越えて南三陸町へ。そのあたりではJR気仙沼線の線路がバス道になっていました。ここから北上して行ってわかったのですが、気仙沼線は海沿いを走る路線で、入り江を渡る部分(つまり街の部分)にかかる高架がことごとく流されたり寸断されたりしており、高架をつくってから線路敷設して・・とやっていると時間もお金もかかるので地面に線路があった部分は舗装して、高架がなくなった部分は一般道に乗り入れてなどして公共交通としてとにかくはやく復活させようとしているようでした。すごく広い志津川湾の入り江の土地はすべて更地になり、いくつか鉄筋ビルとおぼしきものが残っているぐらいでした。さらに北上した気仙沼の本吉地区(さらにもっと広い)も全部更地に。本当に広い土地(ぱっと見ても甲子園20個分ぐらい?いやもっとありそう)が何もない状態になっていたのでした。

分かりにくいけど、線路がバス道に
分かりにくいけど、線路がバス道に
防波堤もこのありさま
防波堤もこのありさま
建物ぽつり(FBにも載せた写真のもっと引き)
建物ぽつり(FBにも載せた写真のもっと引き)

さらにいくつかの入り江を通りながら気仙沼市街をめざして行ってたのですが、途中で日没に。気づいてなかったのですが、東北の方が関西より東だから日の入りが早いのですよね。気仙沼港についたころにはすっかり夜になってしまいました。暗くて辺りの様子が全然分からないので今日はこの辺までに。またまた高瀬さんに教えてもらったヴァンガードというジャズ喫茶(港すぐそばにある)に行き、美味しいコーヒーとカレー(両方で500円だった)を頂きました。津波でお店はまるごと浸水し、ピアノも被害を被ったそうなのですが、マスターの努力でいまはまた綺麗に戻っています。オーディオ装置もすべて駄目になったそうですが、NPO法人「復興博」という団体の「カフェエイド」という企画により復活したそうです。上品でいい音でした。

気仙沼ヴァンガード
気仙沼ヴァンガード
ヴァンガードに寄贈されたオーディオ
ヴァンガードに寄贈されたオーディオ

そして宿を適当にとり(たぶん石巻から気仙沼や宮古といった復興事業がすすんでる地域では宿がどこもいっぱいに近い状態みたいです)、いろいろ見たものを消化しきれないまま就寝。ちゃんと憶えてないけれどすごく怖い夢をみました。

つづく

 

19年

20140117

1995年の阪神・淡路大震災からもう19年。去年の1/17に「18年か」と思ってからもう一年経った。年を追うごとに月日の流れがはやくなっている。さすがに19年もたてばお昼のNHKの全国ニュースのトップニュースにもならないし、震災時刻の報道もNHKとサンテレビだけになってしまった。それだけ時間が経ったということもある(自分の中でも記憶が薄れつつある部分も多い)。もう大学生ぐらいでも知らない人が多いような災害になってしまった。でもこれは仕方ないこと。

思い出というか憶えていることを少し。あのとき僕は灘区の灘駅前に住んでいた。社会人一年目の終わりの頃だった。3連休の最後の月曜日だった前日に姫路で友人の結婚式があり、終電近くまで呑んで、「このまま会社いったろかな」とか思いつつ帰ってきて結構遅くに床についたのだが、5時46分の少し前に海の方からやってくる大きな地鳴りに起こされて「何やろ?」と思ったとたんにドン!という音と共にあの大きな揺れ。ほんとジェットコースターに乗ったかのような感じというか何がなんだか分からないうちに部屋はめちゃめちゃ。這々の体で玄関から出て、壊れかけたマンションのドアを蹴破って(すいません、ちょっと壊してしまった)出て、少し明るくなってきた空のもとで見た街の惨状。地面が割れてたり、裏の家がぺしゃんこになってたり、遥か西の方から煙が行く筋も立ち上っていたり、初めて見る光景だらけだった。近所のおばちゃんが持ち出したラジオで浜村淳さんが「大阪で大きな地震です」としゃべってるのを聴いてようやく「あ、地震なんや」と分かったほど動転していた。

さすがに会社に行くことができなかったのでその週はおやすみになったのだが、じっとしていても仕方ないので、あちこち歩き回った。ほんと三宮はひどかった。17日はまだフラワーロードの柏井ビルは倒れてなかった。あちこちガス臭かった。長田に一時住んでいて、そのあたりは長屋が多いところだったのだが、そこは延焼は免れたものの全部倒壊して(家って倒壊したらただの瓦礫になってしまうということを初めて知る)ぺしゃんこになり遥か遠くの蓮池中学校が見えてるような有様だった。

春前ぐらいかに母親が神戸にきたときに一緒に電車にのった。そのとき長田も通ったのだが車窓の風景を見て母が「空襲のときとそっくり。よう見やんわ」といって目を逸らして涙ぐんでいたのが忘れられない(母は堺で空襲にあい、その後も米軍機の機銃掃射などにも脅かされたそう。コクピットの米兵が見えるほどだっとか。母の生家には焼夷弾の跡があった、六角形の断面なのですぐわかる)。

今朝も神戸の市民のつどいに歌手の森祐理さんが出演して歌っていた。彼女が震災で亡くした弟の渉くんは僕の大学の軽音の後輩(テナー吹きだった)であり、しかも同じ泉陽高の出身。お葬式で彼女に会ったのを懐かしく思い出す。今年も森さんは美しい声で歌っていた。彼女の上にも僕にももう19年の年月が流れたかと思うとたまらない気持ちになった。

多分いくら若い人たちや子供に震災の話をきかせたり映像を見せたりしても、知識として知ることはできても経験にはならない。いくら怖い話をしたって実感できなくて当然だ。残念ながら経験は体験してこそ得られるもの。だから、たぶん遠くない将来にまた同じような災害が起こりうるということを震災を体験した大人はしっかり肝に据え、そのときによりよい対処ができるよう、せめて今日だけは昔のことをじっくり思い起こすようにするべきだと思う。

当時発行された写真集を眺めながら。
震災で亡くなった方、被災した方々に祈りを。

the longest friday

 

2011.3.11

きっといままでで一番長い金曜日だった。

誰もが忘れ得ない、そんな一日だった。

あれから2年。

それぞれの人にそれぞれの、同じ長さの月日が流れていった。

でも、いまもなお被災地に暮らす人たち、

やむなくそこから離れたひとたち。

僕らとかれらの上に降り積もったものは、どれぐらい差があるだろうか。

差、という言葉で表すべきことではないかもしれないけれど。

 

 

結局何もできなかった。

いや、してこなかった。

僕も含め、そういう思いを持つひとはたくさんいると思う。

時間的なこと、物理的なこと、

その他にも仕方ないことがあって、と、

いいわけしたくなることもあるだろう。

 

でもそれを気に病むことはきっと、ない。

きっと手を差し延べるときがやってくる。

だってあの金曜日は今なお続いているんだから。

 

阪神の震災からも、もう18年。

あの日々は忘れない、忘れられたくない。

何も大きな災害だけじゃない、

遠い国々のことは難しいかもれしれないけれど、

この国で起こった身近なことなら、

きっとそのこと、その渦中にあった/ある人たちのことを想うことはできる。

一番さみしいのは、忘れられること。

 

 

だから黙って今日は心を差し延べる。

言葉にするとうまく伝わらないように感じるから。

思い出す。考える。想像してみる。

ちいさなことだけれど、とても大切なことだと思いませんか?

2013.3.11

011718

早いものです。もう18年、いやまだ18年か。

やや薄らいで来たような気もするけれど
まだ心の奥にひっそりとたたずんでいる記憶たち。

あの日あの時間、こんなにも暗かったのだろうかと思う。
地の底からわき上がるような、ざわめいた空気と騒音。
鳴り響くサイレン、立ち上る煙の筋。

 

すべてが変わってしまった。

そのときはその恐ろしさにおののいたけれど、
今はあの日があったから、今日があると思える。

ぼくたちの年号は、あの日が境になっている。
昭和でも、平成でもない、阪神大震災という年号が。

 

震災で亡くなった方、
いまでもつづく悲しみを背負う方、
苦労と喜びをともに分かち合った方、
すべての人に祈りを。

 

一年経って?離れた場所から

今これを書いているのが3/11の午後2時すぎ。一年前の午後2時46分に誰も想像しなかったような大震災とそれに伴う津波、そして原発事故が起こった。そのときぼくは梅田にあるライブハウスでリハがそろそろはじまるなーと準備していた時だった。「昨日の酔いが残っているのか?」と感じるようなふらふらした感じ(地震とは思えなかった)を覚え、ふと天井を見るとシャンデリアが大きくゆっくり揺れていた。長周期震動?!身に危険を感じて外に飛び出てみると架線もゆらゆら。大きな地震なのか?手元の携帯でワンセグを見ると地震の一報。食い入るように画面を見ているとそれに続く津波の映像。あまりにもショッキングで現実とは思えなかった。

それから一年、またたく間。報道やネットで流される情報に驚き、悲しみ、ときには微笑んだりした。地震が落ち着いてくると、そこからの復興・再建が叫ばれるようになった。しかし自分も被災地のために何かしたいなと思う気持ちはあっても、被災地から離れた場所に住んでいるものに何か具体的にできることがあるのかはちっとも分からなかったし、いまも分からないまま。

身の回りにはボランティアに行く人も少なくない。ボランティアでなくても被災地を訪れて何かしようと考える人もたくさんいる。僕自身も何度か行ってみようと思ったけれど、結局行けてはいない。行くことが怖かったのもあるけれど、何が出来るのだと途方に暮れてしまいそうだし、何をしても「そうじゃない」と思ってしまいそうだったのもある。だから被災地の人々の力になれたらと思う気持ちはあっても、一時の大きな気持ちで動き回ることより、今は長い時間をかけて見て、想って、そこから無理なく継続していける何かをしていきたいと思っている。小さくてもいいから続けていくこと、それが大事なのかな、と思う。言い訳/逃げ口上かもしれないけれど。

被災地のほとんどは復興や再建という言葉にはほど遠い状況。今まさに手を差し伸べる必要があるものごともあるけれど、長い時間をかけて手を携えていく必要があることはもっと多いと思う。だから一年経った今日、何か力添えをしなければ思っているみなさん、一年という節目を迎えて気持ちを新たにしていることと思いますが、これからは急いで大きな力を注ぐことより、自分の出来る範囲で、いまなら出来るなと思ったときに無理せずできることだけする、そう思うといいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

この国はちいさな国。そこにたくさんの人が住んでいる。そこでの東日本大震災はとてもとても大きな出来事。だからみんながこのことに思いを寄せ、気持ちを分かちあえている、少なくともそうできている世の中だと思える。でもしばらくはこんな気持ち、空気を忘れていたように思う。でもほんとうはこんな悲惨なことがなくても心を一つにできた国であったんじゃないかと思う。それがこの国の持つ素晴らしいところのひとつだったはず。同じ山や海を見、同じ風を感じ、同じ歌で涙できる、そんなひとびとの集まり。いまのこの想いを持ち続けていくこと、それがいま僕たちに一番必要なことかと思う。

 

17年経って

95年の阪神大震災からもう17年も経ちました。自分自身の感覚としてはそんな前のことではないのだけれど、テレビ画面に映る三宮の東遊園地には若い人も少なくなく、あのとき生まれていなかった人もいるんだよなあと思ったとき、長い年月が経ったんだなと今更ながら思いました。だって自分にとってはまるで昨日のことのように思い出せることだから。

あの地震の前後で生きているということに対する考え方が確実に変わりました。普通に生きているということのすごさ、不安定さ、今という瞬間の先には何があるか誰も分からないのだという当たり前のこと。何もなければ確実に意識しなかった事柄が目に見える現実としてそびえ立ったからです。

僕自身は部屋がめちゃくちゃになったぐらいで特になにか被害を受けたわけではなかったですが、電気もガスも水も来ず電話さえ通じないので数ヶ月間あちこちを転々とする暮らしをしましたし、地震後しばらくしてから塞ぎ込むようになり、土日は一食も食べずにずっと布団の中から出ないような状態にもなったりしていました(でも会社は行っていたようだ、あまり憶えていない。ただ体重が50kgを割りそうになった)。

でも今思い出してみると、こんなことを書くと確実に誤解を招くけれどそこを敢えて承知で書くと、あんな大変な日々だったのに、あの非常事態の数ヶ月間は楽しかった、というかワクワクした ? うまく表現する言葉を見つけられないけれど ? のでした。つらいこと、目を背けたくなるようなこと、諦め、恐しさ・・・いろんなことがあったけれど、それと同じぐらい生きている/生かされているという偶然のすごさ・素晴らしさ、人のあたたかさや優しさ、そんな当たり前のことを強く実感できる時間でもあったのです。実際あの時期、震災にあった人たちはみんな優しかった。お互い立場は同じなのだから、力を合わせよう、お互い補いあおうという感覚が普通のことでした。悲しい現実をみんなで分かち合い、そこからなんとか良くしようとみんなで協力する、言葉にするととてもシンプルなことだけれど、震災以前の生活の中ではここまで人々が同じ思いをすることはなかった(忘れていた)と思います。だからそんな時期はある意味楽しかったのです。でもこれは渦中にあった人間しかわからないことかもしれないですが。

昨年3月11日には東北での大地震そして津波があり阪神のとき以上(大きさで比較するのもおかしな話ですが)の災害となりました。数多くの映像や情報からその凄惨な状況が明らかにされていって多くの人が僕自身も含め心を痛めたことでしょう。でも事実を目の当たりにして酷い、気の毒だ、悲しいとおもう事は誰にでもできるけれど、揺れてどれほど怖かったか、津波がどんなに恐ろしいものだったのかということはそこにいた人間にしかわからないことです。だから僕たち外から見ていた人間はなにか復興の手伝いをする/しようとすることはもちろん大事なことだけれど、少しでもいいから被災した人たちが受けたものを想像し、忘れずに憶えておくこと、思い出すこと、考えること、共感すること、が本当に大切なことなのではないかなとおもいます。

今この世の中に欠けているもののひとつは”時間をかけてじっくり想像すること”なんじゃないかなと思います。次から次へと降ってくる情報に右往左往しているだけで精一杯でひとつのことに構ってられない状態では、たくさんの情報を得たとしても流れていくだけで心の底には積もりはしません。東北の震災以来「絆」という言葉がよく取り上げられていますが、そんな簡単(といってしまっては失礼ですが)なもんじゃないとおもいます。「絆」という言葉のイメージと、たくさんの情報を知っているというだけで繋がっているような気がするだけになっていないか、考えてみる必要があると思います。

2つの大きな震災(もちろんそれだけではないです。大きな地震は2~3年に一度起こってます)は僕たちに物質的に失ったものよりももっと大きな何かを失っていたことに気づかせてくれたのではないかとおもいます。ばらばらになってしまっていたものが近づいたときのあたたかさや喜び。手を差し伸べ、結ぶことだけではなく、同じ方向を見たり、想いを持ち寄ること、共感すること、人と人とのつながりは一方通行では無理なんだ、そんなことを忘れていた、と。

阪神の震災から17年経ってもまったく変わらず癒えないひとたちはたくさんいます。東北の震災についてはこれからです。でもこれらは終わることはありません。だからこそ今の気持ちを胸に抱いて忘れずに、思って、生きていきたいです。

『種を蒔く』ライブ

昨晩はMPP主催の東日本大震災チャリティーライブ、題して『種を蒔く』ライブでした。『種を蒔く』・・・主催の徳本さん(実は彼女は大学軽音の後輩である)の言葉によれば、こういうときに「花を咲かそう」とか「立ち上がろう」とかそういう言葉でいうほど自分は力強くできないけれど、種を蒔けばきっとそこから力強く芽がでて花が咲くでしょう、だからみんなで種を蒔きましょう、という想いからつけたとのこと。すばらしくいいトーンだと思いました。

今回のイベントの話を振られたときから、どんな風にできるか?普通でいいのか?誰が力を貸してくれるのか?という心配事ばかりだったのですが、ひとりひとりがそんな大きな力や気持ちをもっていなくても、気にしている人たちが少しずつ気持ちと力を持ちよれば、すごく素敵なものができてくるのだ、ということが身にしみてわかりました。自分がしょうもない心配していたのが恥ずかしいです。

台風近づく悪天候のなか、わらわらと集まって準備やリハも十分でないなか、カレー呂のお客さんや出演者の知り合いの方々など、たくさんの人が集まってぎゅうぎゅうの状態ではじまったイベント。最初にSugami(Vo)&泉尚也(el-b)のユニットの透き通った豊かな演奏があり、次に僕と大友孝彰(Pf)、千北祐輔(B)、吉川元(Ds)カルテットでの演奏をちょっとやって(自分の曲やらせてもらったけれど、若い力に押してもらってすごく楽しい音になった)、ボーカルの古田てるみを迎えてぐっとくるナイスな演奏がありました。そして最後はうだうだのセッション(笑)。宣言どおり酔っ払いでやってきた光田臣(Ds)や金澤琴美(Vo)、絹川くん(el-b)なんかに参加してもらいました。

そして間の時間には岡田幸史さんとロンドンズのみなさんでのコント。実はこれが一番観たかったのですが、2回ともめちゃめちゃシュールで面白すぎました。パキューン!(見た人しか意味わからないです)。そしてカレーも今日だけ特別の合いがけ(イチジクのやつと・・・なんかのキーマ、忘れてしまった)が抜群においしかったです。

客席もステージもそしてカウンターの中もみんな一体となって聴いて笑って喋って飲んで食べた、楽しいイベントでした。そしてこれが微力でも震災のなにかの役に立てればと思います。お越しいただいた皆様、出演してくださったみなさん、協力いただいた方々、カレー呂のみなさん、本当にありがとうございました&お疲れ様でした!!

また、こんな機会をMPPと協力して作っていきたいと思います。

MPP:Music Power Project

カレー呂

カレーがうまいのです!

5/29 震災チャリティーやります

東日本震災後がらミュージシャンたちが有志であちこちでチャリティーを行っていますが、僕の周りでもいろいろ動きもあり、その中で後輩がMPPというプロジェクトを立ち上げてがんばっているので、僕もそれを手伝いたいなと思っていたところ、その3回目のイベントに協力させてもらえることになりました。

そしてその打ち合わせを昨日会場を貸してもらう谷6のカレー呂(るー)さんで集まって行い、詳細がだいたい決まったので告知しますね。

5月29日(日) 開場18:30 開演19:00
[会場] 大阪 谷町6丁目 空堀商店街内 カレー呂(るー)
[チャージ] 2,000(1ドリンク付) +余裕あればカンパもお願いします
[出演] 武井努Sax/大友孝彰pf/千北祐輔b/吉川元ds/古田てるみvo
スガミvo&泉尚也el-b DUO  and more…
岡田幸史(コント) and more…
その他セッション、フリマなども行われる予定です。

2バンドのライブ+コント+セッション、という楽しい内容になります。当日は飲み物ももちろんのこと、カレー呂さんも通常営業でカレーも食べられます。普段はその日によってメニュー変わりますが、この日はいろんなメニューが並びそうです。

チャージの2000円は、1000円をチャリティーに、500円はお店の飲み物代、500円は経費に充てます。フリマは食器類・雑貨が出品されるようですが、これらは全額チャリティーになります。

普通にライブとしても面白いものになると思いますし、コントも期待大、食べ物や飲み物も充実しています。お時間あるかたぜひ立ち寄ってくださいね!

——
カレー呂さんへの行きかた

大阪市中央区上本町西3-3-30 地下一階
※地下鉄谷町線谷町六丁目③番出口を出てすぐ左に行く
まっすぐ行くと 左手に空堀ど~り商店街が見えてくるので入る
アーケード街が終わってもまだずっとまっすぐ行く
右手に見えてくる美容院コロボックルの左手階段下る

分かち合おう

こんなポスターです

東北・関東大震災から数日たって、だいぶ様子が見えてきましたが、混乱はひどく、関東や東北での計画停電もあって、各地で(驚くことに遠い関西でも)一部の人間による買い占めが起こっているようです。Twitter上でもこれが話題になり、「買い占めやめよう」運動が広がりつつあります。

そんな中でデザイナーのTakamasa Matsumoto氏が上記のポスターを制作されました。物資不足のいま、なるべく被災地にモノを届けなければなりません。被災地外のひとたちが何気なく使う日用品ですが、それがどのくらいの人に有用かをわかりやすくデザインしていると思います。

ぼくもこの運動に賛同します。「買い占めはやめよう」

オリジナルの画像?http://ow.ly/i/9cxt/original |印刷用PDFはこちらhttp://ow.ly/4fqKO

3/11 M8.8 東北地方太平洋沖

昨日宮城県沖でM8.8(宮城では震度7を観測)という日本での観測史上最大の地震が発生した。揺れによる被害も不明なまま、その後広範囲にわたって太平洋側の海岸を襲った何度もの津波により、太平洋に面する街々は甚大な被害を被っている。一夜明けた12日、TVに次々にうつる映像は、絶句してしまうものばかり。

神戸の震災のときを思い出す。あのときの感覚がよみがえってくる。関西にいる僕たちはすぐには何もできなくて悔しい。いまは静かに祈ることだけ。

この寒空の下、被災した方々、そしてそれを心配する人たち、救助や復興に奮闘する人々に平安と励ましを。どうか一人でも多くの人が救われますよう。

Off the coast of Miyagi Prefecture yesterday M8.8 (in Miyagi observed seismic intensity of 7) was the largest earthquake in recorded history of Japanese.?By shaking and damage remain unclear, the tsunami that struck several times and then extensively in the Pacific coast, facing the Pacific towns have suffered serious damage.?12th dawned overnight, TV footage to pass from person to person, things end up just speechless.

I remember when the Kobe earthquake.?When that feeling comes back to me.We are not immediately Kansai shame any longer.?Now I can only pray quietly.

Under the wintry sky, the people who were affected, and those who worry about it, peace and encouragement to those who fight for relief and reconstruction.?As many people will be saved even one person, please.