重松清 – きよしこ


どもってしまうある少年の物語。少年は父親の都合で転校をくりかえす。毎回転校先で事項紹介をするとき、カ行やタ行をどもってしまうので、自分の名前である「きよし」すら言えず、恥ずかしい思いばかりがつのる。思うことをいえない少年はいつもひとりぼっち。いじめられたり、笑われたり。でもある日勘違いから生まれた何でも話せる空想の友達「きよしこ」と出会い、教えられる。「それがほんとうに伝えたいことだったら・・・・伝わるよ、きっと」

物語は決してドラマチックでも何でもない。どもりに立ち向かったり、克服したり、なにか希望の救い手が現れたり・・・なんてしない。けれど、少年はがんばる、頑張り続ける。いつか言いたいことをちゃんと伝えることができるようになるために。

小学校や中学校、そして大人になる前に出会うひとたち。彼らは少年と、そのどもりを通して少年と対峙する。笑うもの、仲間になるもの、助けてくれるもの、喧嘩するもの。彼らに少年は言いたいことをうまく伝えられない。でもその少ない言葉から気持ちが伝わるときもある。間違って受け取られているときもあるけれど、少年が伝えたいことが少しは伝わるのかもしれない。それは少年時代特有の、子どもと大人の間だから許される時が生み出す奇跡なのかも。

なんでもない物語なのに、心の奥にしまっていた、懐かしい空気、景色、音、匂いを思い出し、くらくらしてしまいそうになる。懐かしい・・・・というより、ああああ・・・・という感じか。どもりという少し特殊な環境の話なのに、お話から感じる波動は普遍的なもの。そのあたりに重松さんの本の面白さがあるんじゃないかな。

やるせないなぁ、たまんないなぁ。

新潮文庫 2005

伊坂幸太郎 – チルドレン


伊坂さん初の短編集だそう。本人いわく「短編のふりをした長編」だそうだけれど、なるほど読んでいくと分かるけれど、おもに3人を主人公として、話ごとに視点がかわっていく連作のような感じ。ただし、短編ごとに時代というか時期が前後するので、全体を通して時間の流れがわかったりする仕掛けがあるのも伊坂さんぽいか。

長編に比べてこねくり回し感が少ないのですっと読めて気持ちいい。でも短編といえどいろりろ仕掛けがあって読んでて楽しい。とくに陣内というキャラが何かと強烈ですっとするところもあればいらいらするところもあり、魅力的。彼を見ていると時間の進み具合がわかる。

分かりやすいかもしれないけれど、中では「チルドレンⅡ」が好き。ぼくたちも人生の中でなにか奇跡を起こしたいと思っている。それがどんな形であってもいいから。奇跡なんてない、と思うより奇跡は起こせる/起こると思っていたほうが幸せに生きられるんじゃないかな。

あと先天的に目の不自由な永瀬、彼が哲学的で面白いし、思考も論理的でなるほどなーとおもうところがあって楽しい。こういうキャラも伊坂さんぽいなぁ。「イン」でおもに音を題材とした話が描かれるけれど、なるほど、ぼくたち音楽に携わるものにもヒントを与えてくれるようなエピソードがちらほら。

”・・・僕は耳に神経を集中させる。耳の外側に、大きなメガホンを取り付け、遠くの音までを拾う。そういう感覚だった。僕はこういう時、川の中に立っている気分になる。(中略) 自分の身体の周囲を、水が次々に流れていく。温かい場合もあれば、冷たい場合もある。周囲の音も同じだ。僕のまわりを次々と、音が、音楽や声や雑音や騒音が、通り過ぎていく。(中略)そして、川の中を泳ぐ魚や、落ちている小石、流れる小枝、水生の昆虫、そう言ったものを手で掬うように、僕は必要な音を拾い上げる。すごく神経を尖らせて、タイミングを見計らわないとつかまえられないものもあれば、さほど苦労もなくひっかかるものもある。・・・”

なるほど。普段無意識にやっている聞く(聞こえる)という行為。もう少し見直す必要ありかと。

講談社文庫 2007

奥田英朗 – 最悪


こんなタイトルだし、えらく分厚い(600ページ以上ある)のでどんな話なんだろうと読み出したけれど、これが面白くて、しかもタイトルどおり主人公たち(3人の群像劇である)が転がり落ちていくので、いや面白いというより「どうなるんやろ?」感が強く、一気に読んでしまった。いまひとつなにもやる気がおきずだらだらと退屈な日常をすごす青年、変化のない毎日が少し憂鬱な女子銀行員、そしてこつこつまじめに仕事に追われる町工場の社長。最初の青年はさておき、女性行員と町工場のおっちゃんは実際にそのへんにいそう。

それぞれがちょっとしたことから巻き込まれるトラブルや人間関係の隙間などから日常を少しずつ逸脱していく。そしてそれらがやがて結びつく・・・これだけ分厚い本だと散漫になりそうなのに、ぜんぜん退屈するところがない。また3人が介する(2人でもいいが)ときにそれぞれの視点から同じシーンを描くのだけれど、それがまたリアルな感じで、ひとつの物事を立体的に見せ、物語に奥行きが出来てゆく。ああ見事。

最悪といえば最悪だけれど、最低なことにはなってなくてよかったが、ほんとのほんとに最悪になるような感じでもよかったな、と思わなくはない。読んでるほうは気が滅入るだろうけれど。

とくに同じ自営業だからか町工場のおっちゃんの気持ちは痛いほどわかる。明日はわからない身だもんな。身につまされるな。

講談社文庫 2002

重力ピエロ – 伊坂幸太郎

ずいぶん前に読んで感想かかずにほったらかしにしていたので、忘れたけれど、ちょっと読み返すと思い出すし、ぱらぱらめくって斜め読みしても、伊坂さんの書くセリフってどれも気が利いてるなぁ。

血が半分だけ繋がっている兄弟のお話。弟の春(はる)は不幸な出生の秘密をもっている。街に出現するグラフティーアート(落書きというひともいるかもしれない)と謎の放火、レイプ、いろんな問題がハルを悩ませる。それらの謎解きが兄に意外な事実をもたらす。

相変わらず話のもっていきかた、意外すぎる落としどころが見事。映画化されたけれど、それは見ていない。

やっぱり感想って読んですぐ書かなきゃだめね。

新潮文庫 2006

野沢尚 – 破線のマリス

あるテレビ局のニュース番組の特集コーナーの映像を編集する凄腕の主人公遠藤瑤子。彼女がつくりだす映像は視聴者に問題を提起し、想像力をかきたてさせ、テーマとなる事件に彼女なりの考えを訴える。いろいろ問題は起こったとしても、あまりにも圧倒的な彼女の映像の力は、局内でもなかなか強く責めうるものではなかった。

しかしある事件にまつわる一本のビデオテープが持ち込まれたことから、彼女は追い詰められていく・・・・

現在いろいろ報道の偏りや情報統制、倫理などが問題になっているが、メディアの力は絶大。短い時間であっても繰り返せばあるイメージを視聴者にあたえることができる。真に客観的、平等、虚構なき報道ならば大丈夫だが、いろいろな圧力、思惑により、メディアはまっすぐであるとは到底いえないとおもう。しょうもないバラエティーならいざ知らず、ニュースやそれに並ぶ報道番組ではかなりキケンな兆候。

解説で郷原さんも引用しているが

「テレビジョンは現実そのもので、直接的で(中略)こう考えろと命令してくる。正しいことであるはずだ。そう思うと、正しいように思われてくる。あまりにもすばやく、あまりにも強引に結論を押し付けてくるので、誰もがそれに抗議している余裕はない。ばかばかしい、と言うのがせいぜいで」

なるほど、その通りかもしれない。だから正々堂々とウソ(タイトルでいうところのマリス=虚構)をつかれてしまうと、メディアの前の人間はそれがどうであるのか、考えることができない。それでも、最近はネットのような別メディアによって、違う角度からテレビメディアをけん制する動きもでてきたが、思っているほど大きな力(まんべんない層に届いていると思えない)にはなっていないようだし、さらに最近のテレビはウソをつくかわりに「わざと報道しない」という方法をよくとっているような気がする。

でも当たり前か。テレビや新聞もそうだけれど、ありとあらゆる情報が書かれていると勘違いしがちなネットでさえ、”書きたい人がある意思をもって書いたこと”のみ存在しているに過ぎないということ。

講談社文庫 2000

重松清 – 流星ワゴン


重松さんの描く物語はちょうど僕ぐらいの男の人の悲哀に溢れている。作者本人がというわけではないだろうけれど、ちょうどこれぐらいの年齢の、いろんな立場にいる男の人が共通に持っているであろう、もう若くはないということへの諦め、ずっと心の底に隠していた過去の失敗、夢見ることへの少しの落胆、などなど、まだまだ先は長いけれど、振り返ってみてもだいぶ来ているような気もして、いままでの、そしてこれからの人生に迷うひと時、そんなものを描いているんだとおもう。実際身につまされるというか、じんわり実感することが多い。

この本は子供の受験失敗による荒れ、妻からの突然の離婚発言、そして自身のリストラにより生きていくのが嫌になってしまった、38歳の夫の話。もう死んだほうがましだ、とおもった彼の前に止まったワインカラーのオデッセイ。誘われるままに乗り込むと、そこには同じような年齢の父子が。彼らは主人公にとってたいせつな場所に連れて行ってくれるという。そしてそのたいせつな場所で出会ったのは、自分と同じ年齢の父親だった・・・・。

いろんな形の父子関係が描かれる。どれもうまくいってない。それは男同士だからか、はたまた家庭の形のせいなのか?

解説で斉藤美奈子さんが『XY – 男とは何か』(エリザベート・バダンテール)を引用している(そのままさらに引用)

「十九世紀半ばを過ぎて工業社会が実現すると、過程は新しい相貌を帯び始めた。男性たちは一日中、工場、鉱山、オフィスなど家庭の外で働かなければならなくなった。都会に住む家族の父親と子どもとの接触は著しく減り、父親は子どもの目には、なにかわけのわからない仕事をしている遠い存在になってしまった。(略)その50年後には、世界は、交流のまったく無い異質な領域に二分された。母親が管理する家族という私的な領域と、男だけの国である公的な職業の領域である」

なるほど、その通り(おおまかには)。いまでは当たり前とおもっている現在の社会における家族のありかたは、よく考えると非常におかしな形だ。両親と子どもがそろうときというのは一瞬だ。あとは勝手ばらばら。子どもが大人という存在のあるべき形を学習できなくて当然だし、親は子どもの姿を見失ってしまう。でもこの状態を当たり前で、これでなんとかなる(なってもいないが)と思い込んでしまっていることが、一番問題なのかもしれない。これを読むまで僕自身もあまり疑問に思っていなかった。

親のことが嫌い、子どものことがわからない、これはもしかしたら当たり前で、あまりにも短い共有時間では何も分からないし、ましてや年齢の違う、立場も違う男同士というのは理解しあえないのかも。時間をかけないことには。

解説で重松さんもこんなことかいてるけれど、ふと父が自分と同じ年齢のときはどうだったか?または子どもが自分の年齢のときにどうなってるのか?ということを想像したら、少し両者の距離は縮まるのでは、と。もっともっと男同士だから理解しあえる”朋輩”になれるんでは、とおもう。難しいかもしれないけれど、たしかに単に遠い存在である父が(ぼくは子どもいないので)、自分と同じ年齢の存在のときどうだったかと考えると、少しだけ近い人物像になるような気がする。

父子関係を考えさせられる、寂しいけれど、すこしあったかくなる物語。

講談社文庫 2005

宮部みゆき – 震える岩

宮部さんの歴史もの。赤穂浪士がネタ。ふつうのひとには見えないものが見え、聴こえるという不思議な力をもつお初が、ふとしたことから関わった「死人憑き」(死んだ人がよみがえる)の事件を発端にそこから数々の謎を呼び寄せる。そしてその先には、赤穂浪士討ち入り事件の陰が・・・・

時代物でちゃんとその時代の空気感をかもし出しているのに古い感じがしないのは、宮部さんさすがという感じか。逆にいうと車とか電気とかそんなもの出てこないのに、現代劇風の感触で読めるので、時代物といってもへんなひっかかりがなくていい。

武士のあるべき姿として日本人が好み、褒め称える、忠臣蔵として描かれる赤穂浪士の討ち入り事件だけれど、あだ討ちのことだけクローズアップするとそうだけれど、あの平和な時代(1703年だそう。江戸幕府がひらかれてから100年後、5代将軍綱吉のころ)にあっては、武士が武士である意味、怖さというものが人々の心から忘れられていきつつあったご時世に、武士側からいえば武士の存在の意義を世に示した事柄、そうでない人間たちには武士の恐ろしさをおもいださせた出来事だったよう。

だから、もしかしたら、純粋に吉良家と浅野家の間でのあだ討ち、ということではなく、武士の世界がそういうことが起こるように仕向けた、また、その立場に立たされた、吉良も大石蔵之助および赤穂浪士たちも、世間に対してそうせざるを得なかったのではないか(そう追い込まれた)、という、すごくおもしろい方向からの見方をしていて、なるほどな、とおもった。悲しい話かもしれないけれど、当時は必要に迫られ起こったことだったのかもしれない。

講談社文庫 1997

きくち正太 – おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ。(4)

まんが続きます(笑)。暑さのせいか、いまは字をあんまり読む気がしなくて、まんがばっかり読んでます。でもこの「おせん」の場合は単なる漫画というより、日本の文化とか、食の大切さとかをとくにここ数年は強く推してきてるし、この4巻のころ東日本大震災があったので、それにちょこちょこ言及するようなこともあり(きくちさんは東北の方)、いろいろ考えさせられるし、知らないことにたくさん触れられて、この本から他のものに興味を抱くことができるようになる、という意味で、単に漫画やん、という枠では収まらないのがとてもいいです。主人公おせんさんがすごく魅力的ってのもあるけどw

この巻は、全巻からつづく骨董にまつわるお話で、知らない世界のことなので、たとえばテレビとかで触れてもぜんぜん興味が湧かないのだけれど、このおせん、つまりきくちさんの目を通して語られると、もちろん遠い世界のことだけれど、身近にも存在する(用の美とか)もので、決してわれわれ庶民の生活に関係ないものではない、むしろその延長なんだと少し感じることもできる。いつか僕も骨董に興味が湧いたりするのかな。

一度骨董市とか行ってみたいなー。大きな擂鉢すごく欲しい。欲しいw

きくち正太 – おせん (16)

活字も大好きだけれど、実はまんがも好きなんだけれど、4年前だかテレビドラマがになってそれによってきくちさんがえらくショックを受けたらしく(原作になっていたのに、あまりにも違う内容だった)、連載がストップしてしまったシリーズ最終巻。出てたの知らずだったのでようやく入手。

最後のエピソードは本枯節の話(鰹節ね)だったのだけれど、日本料理ひいては日本人の味の基本のひとつである出汁の悲しい現実の話で、考えさせられることが多い。最初は粋な女将のいる老舗の料亭のちょっと面白い話からスタートしたけれど、文化とは、心意気とは、人情とは、生きていくこととは、なんていうテーマをこれでもかこれでもかと筆に力を込めて描くきくちさんに拍手を惜しまない。まんがという形をとった文化論書のよう。

残念ながら「おせん」はこの巻で終わりだけれど、連載誌を移して「おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ」というシリーズになってます。これも読むべし。

16巻は話の数は少ないので、「萬屋先生道行恋の春絵巻 よひわひな」が収録してある。

百田尚樹 – ボックス!

ちょっと前に読んだ「永遠の0」がすごく面白かったので百田さんのほかの作品を、と思っていたら目に付いたこの本。評判もよかったので。

高校ボクシングのお話。あんまりボクシングには興味ないけれど、ボクシングの大まかだけれど丁寧な説明や、プロとアマチュアの違いなんかをうまく視点を変えながら(一人称になる登場人物が3人いて、それらの立場からボクシングをみるため、登場人物の目を通して読者がうまく知識を得られるよう配慮してある。この辺は解説の北上さんがうまく説明してくれてた)描いていってるので、ボクシングをまったく知らなくても、物語にすっとはいっていけるし、ストーリーはあくまでもシンプル、ストレートにしている分、感動も素直に湧いてくる。

2人の少年と1人の女性教師の青春期みたいな感じだけれど、天才的な鏑矢少年にはまぶしさを感じるし、努力の人木樽少年には期待と応援を、そしてきっと美しいんだろう耀子先生は少し大人だけれど少女のようで・・・分かりやすすぎるほど明快なのに、でもちっとも飽きもせずに上下巻一気読みしてしまえるのは、うまいキャラの活かせ方と話の運び方、そしてボクシングを知っていける魅力をうまく織り交ぜたからだと思う。なんか木樽少年にあわせて自分も強くなったような気もしちゃうし(笑)

ラストがいわゆるハリウッド映画みたいに単純じゃなくていいし、それだけじゃなくてエピローグまでつけて読後に爽快感まで味わわせてくれて、憎いなーという感じ。素敵な青春小節でした。

ひとつ残念なのは章立てになっていて、事前にその章ごとのタイトルをみちゃうと(もちろん目次になってるけど)だいたいのストーリーが読めちゃうことかな。でも全然かまわないけれど。予想通りの進み方でもそれを上回って内容楽しいから。

太田出版 2010