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震災

21年

20160117

1995年の今日から21年が経った。今朝も地震が起こった時間の前に起きてテレビの前で黙祷する。21年目になる今年は昨年より三宮の東遊園地に集まったひとは少なかったらしい。だいぶ前から少し雰囲気がしんどくなってここにはいかなくなった。ボランティアの方々も高齢化していろいろな活動を続けるのが難しくなってきたので止めてしまったり、若い世代に交代してきたりしているらしい。

6時前のベランダに出る。空気は冷たく、まだ暗い。21年前のあの日はこんなに寒く、そして暗かったんだろうか?と考える。記憶に残るあの日はなぜか明るく、寒さを感じていなかった。ただただ呆然と、というよりは、興奮していたのかもしれない。

当時JR灘の駅前に住んでいた。あの辺は震度でいうと7かそれ以上あったところ。ちょうど16日が月曜日で成人の日の振替だったので休日で、友人の結婚式に出て、遅くに帰ってきた次の朝だった。眠っていたところを地鳴りで起こされ(地鳴りというものも初体験だったのだが、その低音の恐ろしさに意識が目覚めた)寝ぼけ頭には到底何が起こっているか理解できないような状況にいきなり投げ込まれた。揺れているとかそういうことすら判らないぐらい揺すられ、布団にしがみついて叫んでいただけだったように記憶している。

ワンルームの部屋の中はむちゃくちゃになり(真っ暗だったので何もわからなかった。後から確認すると頭の上をテレビが飛び越していたり、ラックが倒れ込んでいたりしたが、幸いにもすべて体に当たらないところだった)、這々の態で部屋を出、ゆがんで開かないマンションの扉を蹴破って(すいません)外に出て、地面が割れてるのを見たけれど、まだ地震だとはわかってなかった。何かとてつもないことが起こったんだ!ということしか理解できずにいた。そのうち近所の人がラジオを持って出てきて、6時からの浜村淳さんの番組で彼が「地震です」といった一言で、ああ、これは地震なのか、と気づいた。

その時の空は明るく、寒くはなかった、ように覚えている。少し時間が経っていたから?

ラジオの声は情報も少ないためか、大阪市内で怪我をした人が何人かいる、とか、少し火事があるらしい、と伝えていたが、目の前では倒壊している家はあるし、遠くには(長田とかだ)何本も煙が立ち上っていた。明るかったのは、昔、父が堺や神戸の空襲をみた時に「明るくて綺麗だった」(父は小豆島にいた)といっていたように火事が明るかったのかもしれない。か、もう少し時間が経ったとき明るくなっていたけれど立ち込める煙で曇天の夕方のようになってた記憶と混同しているのかもしれない。その頃になると雪のように灰が降っていた。

こんな記憶も20年以上の歳月が経つと薄れてくるし、ニュースや写真集で見る映像と混同していってしまう。忘れたらいけないとか寂しいとか悲しいとか思うのと同時に、忘れないとやってられないとも思う。これは両方本当のこと。きっと忘れるのではなくて外からやってきた経験が自分のものになってさらには自分の一部になり、表面的に記憶というものからは薄れるけれど、体が体験的に覚えているという状態になっていくのかも。自然に自分の体の中にあって、たまにそっと覗けるような自分だけのものになって、それでいいんじゃないかと思う。

お昼の震災関連のイベントで震災をしらない世代の子供達が「教えてもらったことをまた伝えていくことが大事」「コミュニティー作りをしていきたい」というようなことを言っていて、その通りなのだけれど、見聞きする知識と体験は天と地ほどの差があるし、体験を体験として伝えていくのはとても難しいと思う。もしかすると文字や数字や写真で整理されたことを学習するより、語り部(でなくてもいい、おもしろ怖く話せるなら誰でも)が、むかーしむかしーみたいな話にして怖い話として伝えた方が、肝心なことは伝わるのかも、とか思う。

未だに神戸の震災を苦しむ人も少なくなくいる。東北も他の地域も災害にあった人はたくさん。みんなに平安が訪れますよう。

PS
震災後によく神戸で、いまでは全国の被災地で歌われる「しあわせ運べるように」という歌、いい歌だなーと思って聞いてるんだけど、最初に「傷ついた神戸を元の姿に戻そう」と言ってるのに、サビで「生まれ変わる神戸のまちに」って言ってるのが変な感じがする。まあ元に戻すことは無理なんだけど。元の姿、じゃなくて、元気な街、とかにしたほうがよかったのかなあ。

4年て何日ですか?

20150311

誰だって忙しい。やりたいことも、やらなければならないこともたくさんあるのは分かってる。でも、たった1分でいいから、想像して欲しい。いま、まさにいま、同じ時間をそう遠くないところで寂しい思いをして過ごしている人が少なくなくいるってこと。ちょっとぐらいいいじゃない、仕事さぼったって、何かを中断したって。今でなくてもいいから。今日という日のどこかであれば。今日でなければ意味をなさないことがあるんだから。

もしそんなこともできないというのなら、許されないというのなら、なんて貧しい心だろう、なんて貧しい国なんだろう。大切なことを忘れてさせてしまったそんな国はいずれ崩壊してしまうだろう。何か難しことをしろと言ってるわけじゃない。別に何かを背負えってっ言ってるわけじゃないし、分かち合わなければと言ってるわけでもない。そんなことできっこない。どんな物事もそれを経験した人以上に感じることなんてできない。立場を入れ替えたとしても、それが何かの解決になるわけでもない。ただ単純に、まっすぐ、思いやりたい。いや、やりたい、という言葉が違うなら、そう、思いを寄せてあげたい。具体的に、物理的な何かの行動をできなくても、そうやって思いを寄せることでできることはきっとある。それで心安らぐことがあると信じてる。自分が傷ついているとき、手を差し伸べられなくとも、どこかで祈っている人がいるってことを、見てくれてる人がいるってことを、感じられたら、少しは気持ちが楽になるんじゃない?

だからちょっとだけでいいから想像してみて。あなたが、ある日突然「今住んでいるこの家を出てください。手に持てる分だけ荷物もって。さあ早く!」といわれて、知らない土地にある四畳半のアパートに連れて行かれる。周りは知らない人ばかりだし、便利なところでもない。そこで4年いつづけるってこと。そしてそれがいつ終わるかわからないってこと。もともと住んでたの家はあるのに。

または、住んでいた町が綺麗になにもなくなって、そこに新しい街を作ろうとしている。でもその土地へ戻るのにまだ2年も3年もかかりそうだ、もう4年も待ったのに。それに、たとえ戻れたとしても親しかった隣の人が戻ってくるとは限らない。住み慣れていたはずの街が違う街に見えてしまうかもしれないという不安。

もっと想像してみて。いまのあなたなら、そんなことたいしたことない、耐えてみせる、打破してみせると思えたとしても、いまあなたが70歳だったら?80歳だったら?歩くことが心許ない立場だったら?

ぼくたちは明日という日を信じられるから、今を楽しんでいられる。どこかに自分にとっての拠り所が、帰る場所が、戻る部屋がある、という幸せがある。それは誰もがもてるはずのもの。この国では、この間までは。でも、明日がどうなるのかわからない、いくらか先になれば陽がさすようになるかどうかもわからない。そんな先が見えない中での、仮の住まい、仮の仕事、仮の姿。「仮」だらけのそんな足元不安定な状態が4年続いて、自分ではどうしようもない状態って、どんなだろう。そういうとき助けになるはずの国は、自治体はなにしてるんだろう。国って、自治体って、誰?

被災地の現場はみんな、とても一生懸命にやってる。頑張ってる。それは知ってる。なんとか早くこの状態を改善/解決しようと必死になってる、と思う。とても困難な場所での仕事も進めてる。でも、現場はそうでも、その舵取りするところがバカだったら?教えられた話と、書かれた数字だけで物事判断してたら?ましてや自分の損得だけで動いてたら?砂場でお城つくるのにショベルカー買ってきて、それで土砂積み上げて「いい感じでしょう?」とか言ってたら?

国は復興を加速するんだというよくわからない台詞を吐く。加速したら復興するものなの?きみたちが復興といっているものは見える形があるものだけなのか?それでもいいから加速するというなら、東京でやるとかいってる何かの大きなイベントに割いてる力をもっと向けるべきじゃないの?というか順番間違ってるんじゃない?いやいや、復興あっての国の成長、国の成長なくして復興なしでしょう、経済あっての復興でしょう、というかもしれない。そりゃぼくたちは国が築いたシステムの中で暮らして行けてる。でも国を形作っているのはシステムじゃない、人間と土地でしょ?システムを維持するためだけのシステムというのは結局誰も救えない。でもそうなってきてるように見えるのは僕だけ?

きっとみんなで、なんとなく効率よく、都合良く、つぎはぎだらけでもなんとか機能してるシステムをあまりに大きく育ててしまったがために、それを操作してる/されてる人間はそのシステムの末端がどうなってるか見えない/見なくてもいい、と思ってるんだろう。あと、ネットとか一見便利そうなツールが与えられたおかげで、そこを覗けば何でも見て知ることができると勘違いしてるんだろう。肝心なことはあんな小さなモニタ越しには伝わってこない、そんな当たり前のことも忘れるほど。

だから、今日だけでもいいから、そんな色眼鏡は外して、普通に当たり前の感覚になって、手を休めて、モニタから顔を上げて、窓を開けて、遠い空を眺めて。復興とかに関わって大きな仕事してる人でも、勉強中の人でも、ぜんぜん関係なく夕飯を作ってる人でも、なんでも誰でもいい。ちょっと想像する。それで救われることはあるし、ちょっとはまともな方向に向くかもしれないから。そう信じてるから。

4年て何日ですか?何回ご飯食べましたか?何回笑いましたか?何回泣きましたか?何度家のドアを開けましたか?知人の子供はどれくらい大きくなりましたか?あなたはどれくらい変化しましたか?

4年て何日ですか?

20年の節目

20150117

少し時間があいてしまいましたが、先月の17日で阪神大震災から20年が経ちました。やっと、なのか、もう、なのかなんとも表現しにくいのですが、普通の感覚で考えたら長い年月ということになるのかもしれません。なので普段の生活をしていると、もうすっかり過去のことになってしまったかのように思ってしまいます。しかし、先日の震災当日に報道された映像などを見ていると、震災は全然過去のことではなく、未だに生々しい今の感覚として感じている人も少なくないんだなと思いました。

でも、ぼくはこの20年がひとつの節目になる/なってしまうんだろうなと思います。20年といえばその頃生まれた子供たちが成人を迎えるわけで、ある統計では神戸市では震災を知らない人の人口比率が44%にもなったそうです。被災して亡くなった方、立ち退いて遠くへ移らざるを得なくなってそのままの方、20年の間に亡くなった方、そして新たに産まれたり神戸にやってきた人たち。確実に人は流れ入れ替わり、知らない人がたくさんいても全然不思議ではありません。震災のことを他人事や余所事のように感じる人が増えて、記憶や記憶が風化していくのはとても残念で寂しいことだけど、それは仕方ないことであり、もしかすると必要なことなのかもしれません。

もちろん忘れ去ったり記憶を葬り去ってしまえというわけではないし、体験した人間が記憶し思い出し伝えていくことはとても大切なことです。けれども(そんなことはないと思うんだけれど)体験したことの悲しみや喪失感に引きずられていつまでも悲しみ続けているだけという状態からはそろそろ卒業しないといけないんじゃないでしょうか。と言いつつ本当はほとんどの人はもうそうなっているのに、メディアの報道を見ているとどこか悲しむために悲しんでいるように(もしくは悲しさを過剰に演出しているように)見えてきてしまい、そうなって欲しくない何かか誰かがいて、そんな雰囲気を醸し出そうとしているんじゃないか?と思ってしまいました。

震災は年月が経ってもなかったことにはできない、たしかにあった出来事です。そしてそれを体験したたくさんの人がいて、その体験も感じた悲しさも消えることはなく、もうそれはその人の一部になって今という時間を生きていっている。街が再生されて綺麗になっていたとしても、未だに震災のときのまま土台だけ残して空いている土地も少なくなく存在し、街もまた震災の記憶をどこかに含んだまま新しく踏み出している。もうそんな段階に入っているんだと思うんです。だからもっと(変な言い方だけど)肯定的に震災の記憶を/悲しみを受け入れて、昇華したり糧にしたりしながらともに歩んで行く、そんな気持ちになる、そういうふうに被災者もそうでない人も社会もその他有象無象も一緒に変わっていくんだということを意識する時期なのではないでしょうか。それが20年というタイミングなんじゃないのかなと思うのです。

たぶん表立って阪神大震災が取り沙汰されることも少なくなっていくだろうし、ますます記憶は薄れ、伝えるものも形骸化していくでしょう。でもぼくは忘れません。ときには思い出すし、機会があれば伝えようとするでしょう。それはごくごく個人的なことでいいと思っています。社会としてはこれらをきちんと記録して教訓とし、追悼と感謝の念を忘れずにあればいいと思います。外から貼られる/貼りたがられるレッテルはもういらない。

今年はそんなことを、思いました。

でも、20年の経った神戸でさえこんな風に思うのだから、まもなく4年を迎えるもっともっと被災地が広かった東北はいったいどうなるんだろうと心配しています。また東北いきたいです。

改めて、被災した方々、それにつながる人たち、力を尽くしてくれた方々、思いを寄せてくれた人々、すべての人に追悼と感謝を。

2015.2.4 武井努

東北再び

 

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もうだいぶ前のことになってしまいましたが、9月の頭に3月につづいてまた東北をぐるっと巡ってきました。今回は前回と違って被災地を見て回る以外に別用もあったので、それと兼ねての旅行となりました。前回は震災から3年目にして初めてだったので、目の当たりにした状況というのがいったいいつから続いているものなのか、そして復興作業がどれぐらい進んだものなのかは全然わからなかったのですが、今回はそこから半年経ってどう変化したかを見ることができました。

今回は岩手は釜石から南三陸の海岸沿い、宮城は石巻からほぼ全域、福島はまた相馬から浪江町の手前までをうろうろしました。津波被害のあったところは松島などの観光地を除いては堤防工事がまず進められていました。前回は宮城の南の方で堤防が作られつつありましたが、それがどんどんのびて行ってるようでした。福島の方が工事は遅れているように見えました。岩手のリアス式海岸の入り江もまずは堤防や護岸工事を進めているという段階で、半年前からは変化はあるものの、まだまだ先は長いように見えました。また特に宅地にするような(自治体によっていろいろ町の再生計画が違うでしょうから一概には言えないけれど)ところは護岸+土地の嵩上げをするようで、近隣の山が切り崩されていっていて、いいようにいうと急ピッチで工事が進められているという感じですが、逆にいうとすごいペースで景観が破壊されていってるという印象を受けました。

陸前高田3月

陸前高田3月

陸前高田9月

陸前高田9月

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区9月

南相馬小高地区9月

宮城・福島県境(宮城方面)3月

宮城・福島県境(宮城方面)3月

宮城・福島県境(宮城方面)9月

宮城・福島県境(宮城方面)9月

とくに広い土地が浸水した陸前高田や本吉地区なんかでは大量の土砂が運び込まれ土地を十メートル以上嵩上げするらしいのですが、半年前にはその土砂はほとんどなかった状態でしたが、半年経って運び込まれた土砂はすごい量でした。が、全体から見るとそれはまだまだ足りてないという状況で、どのくらいで嵩上げのための十分な土砂が運び込まれ、整地され、宅地などになるのか、というのは想像もできず、まだまだ先は長いんだろうなと思わされました。仮設住宅の期限もあるだろうし、町の再生計画の是非もあるだろうし、そもそも住民の体力の持続力もそう長くはなく、いくらでも待てる訳ではないだろうし、、、、果たしてこの基本的な方針がよりよい選択なのかどうか、疑問を感じてしまうところもあります。でも、何か動かさねば何も進まない、ということなのだろうか、と、見てるだけの僕にはその程度しか言えないです。

またこの夏は非常に雨の災害が多かったので、こうやって近隣の山々を乱暴に削ったり、あちこちに積み上げたり、そんなことしていると別の災害を招かないか想像すると怖かったです。現にいっているときも台風がきていたり、仙台や石巻で冠水するほどの短期間の大雨が降ったりと降雨の被害が出ていました。そのあとには立て続けに台風もきましたし。今年はそういう年なのかもしれないですが、とにかく二次災害のようなことにならなければいいなと思います。

また放射線被害で立ち入りが制限されつづけている福島県ですが、3年経ってだいぶ規制範囲が狭くなって来ていて(放射線量は下がって来ているけども、という感じ)帰宅してもいいような、もしくはもうすぐ帰宅できるようになる、というような場所が増えているようで(南相馬)、直接地震や津波の被害のなかった家屋は手入れされていたり(でも住んではいない)、周りの家屋が津波で1階部分が破壊されているにも関わらず綺麗に修繕してある家があったり(でも近所では家屋が取り壊されたりもしてるところもあり)と、帰宅したいけれどあきらめた方/帰宅できることに望みを賭けている方のように、同じような場所でも分かれてきてるのだなと感じました。それでも特に浪江町や双葉町はそのままだし、南相馬でもまだ戻れない場所がたくさんあり、みんなが戻れないことには町が元に戻らないので住めない、ということなんじゃないかなと感じました。ここは津波の被害地域以上に深刻で、いろいろ頑張って作業されている人をたくさん見かけましたが、何がどこまで進んでいるのかはあまり分からなかったです。ただ、放射線被害が軽減された場所においてはがれき撤去が進んだり、除染もいちだんと進めているな、という風には見えました。

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区9月

南相馬小高地区9月

ただ、3月に行ったときと違って田畑が復活しているところもあったり、単に草がぼうぼうと生えているところもありでしたが、全体に緑色の景色だったので、被災地の荒涼たる姿という感じではなかったです。だからといって何かが変わったわけではないのでしょうが。でも草木というのはほっとするものなのですね。

中央では2020年のオリンピックのための工事も急ピッチで進んでいて、そのために東北復興のための人足が不足していたり、資材が高騰したりしているという話もききます。決してオリンピックを否定する訳ではないですが、せめておなじように注力できないものかと思います。そりゃオリンピックは国を挙げての事業で出場する選手にとっても、それをめざす若者たちにとっても、観戦するたくさんの人々にとっても夢や希望を与えることになるかとは思いますが、せめてそれはみんなが同じ平安な気持ちで臨むものにならないかなと思います。今の状況をみていると、穿った見方をしなくても東北が置き去りにされてるという感が否めません。結局金を持つもの集めたいものの経済活動の一環だ、としてしかとらえられないようなやり方でのオリンピック開催ならばはなはだ疑問が残ります。

これからまた厳しい冬がきて、やがて丸4年を迎えることになるのでしょうけど、被災してから4年経ってもぜんぜん状況が変わらないとはいったいなんなんだ?のようなことにならないようになればいいなと思います。被災地の方々が平安な気持ちになれる日が少しでも早く来るよう祈っています。少しでもと思ってチャリティーなんかもやりますが、それは微々たるものです。なので、とにかく志ある方はボランティアとはいわないから、単に東北に遊びに行ってください。景色はいいしご飯はうまい、空気もうまい、いいところです。僕らはそれぐらいのことしかできないのですから。

カッパ淵(岩手 遠野)

カッパ淵(岩手 遠野)

森の図書館(岩手 大槌町)

森の図書館(岩手 大槌町)

瑞巌寺(宮城 松島)

瑞巌寺(宮城 松島)

中尊寺(岩手 平泉)

中尊寺(岩手 平泉)

東北ぶらり旅:その4 原発災害地について思う

(つづきです。長文乱文です。前のはこちら

たぶんこれが最後です。この文章も完全にぼくの個人的な見解というか、見て感じたことを書くので、不適切な表現があるかと思いますし、誤った部分もあるかもしれません。とくに被災された方々には失礼にあたることや神経を逆撫でしてしまうことがあると思います。でも、思ったことをそのまま書きたいと思います。あくまで個人の意見です。

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広い範囲に渡って生じた東日本大震災の被災地の中でも、この原発による災害を被った場所は、被災地ではなくて、被害地、と呼ぶべき場所になっていると思います。いろいろ見方はあると思いますが、ここに関しては完全に人的ミスによる被害です。もちろんその引き金となったのは地震や津波であることは間違いないですが、原発がそこに存在すること、そもそも原発という代物を選択したこと、それをもともと考えられた耐用年数を遥かに超えて使い続けた/使わざるを得なかったこと、という点では人的ミスによる被害といえると思います(もちろん震災当時の原発のコントロールミスもあったと思います。それは現場のコントロールもそうでしょうし、トップの判断ミスもでしょう)。一時”想定外”という言葉が世間を賑やかせましたが、すべてのことを想定するということは、人間にとってはかなり難しいことだと思います。が、過去に原発というものを必要あって選択した。それは誰が悪いというわけではないと思います。原発が日本に導入されようとしたとき、もちろんいろんな利害関係や野望、希望、必要があったと思いますし、誰もが少しずつ公益と利害をもってことにあたったと信じたいです(まったくの利権だけのために動いたとは思いたくない)。

でも結果的にいまは「帰還困難区域」と呼ばれているよくわからない名称の場所は無人の街となっていて、やはり無人の「警戒区域」や、住むことはできない「居住制限地区」、一応住めることになっているけれどほとんど戻ってくる人がいない「避難指示解除準備区域」などなど、地震や津波の被害は免れたのにいまだに住人が戻ることのできない/していない区域、これは被災ではなくて、被害なんじゃないでしょうか。

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今回の旅でほんと悔やまれるのは(他の地域での行き当たりばったりというのはとても良かったのですが)この原発被害にあった地域だけはちゃんと調べてから行動すべきだったということです。もちろんいまでも線量は他所の地域に比べては高い部分もあるようですので、長居することは危険だと思うのですが、もっともっと見るだけでいいから、南相馬や浪江町、できれば大熊町や双葉町なんかも通ってみたかったのです。うまくやれば福島第一原発だって見えるところにもいけたと思います。今回僕が通ったのはこんなルートでした。

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何も知らずに、とりあえず仙台から南下して、浪江町ぐらいまでいったら、どこかを通り抜けて(きっと迂回させられるだろうことはわかっていた)南側に出られたらいいなぁ、なんて考えてR6を南下していったのですが、結局は浪江町のはずれぐらいで行き止まり(許可ある車しか通れない)、また浪江町や双葉町自体が自治体として立ち入りを制限しているので、僕のようなよそ者は立ち入ることができずに、R6を戻って迂回路を探しましたが、上記の図のように、浪江町自体や警戒区域、帰還困難区域は通れないので(通り過ぎることすらできない)、県道258、県道34、県道12を通って南相馬から飯館村、川俣町に抜けました。もし浪江町を迂回するつもりなら川俣町からR349で二本松市、田村市を抜けて、R49でいわき市に出て、というルートしかなさそうです。細かい県道など通れたとしても必ずどこか立ち入り禁止のところにあたるので、かなり大回りする必要がありました。なので飯館村を走ってる時点ぐらいでもう16時ぐらいだったので、迂回して原発の南側に出るということは今回は諦めたのです。

でも、浪江町のほんの一部や、もともと警戒区域だった南相馬の南部分、今でも居住制限がある飯館村などを通って見た光景は異様な感じでした。言葉で説明するのは難しいのですが、いわゆる廃墟的なものではなくて、変な表現になりますが、SF的な、ある日街中の人が蒸発してしまった的な感じでした。それは地震で倒壊したり津波で流されたような建物はほとんどなく、しかも住んでいた人たちは避難したとはいえたまに戻ってきて手入れをする方もいらっしゃったり、除染などをしたために、建物も、田畑(これらは津波区域と同じように更地のような感じになっている)も牧場も荒れていないからでした。なので、街はきちんとしているのに人だけがいない、という不思議な状態で、それが異様さの一因であったと思います。大熊町や双葉町はもっと荒れたりしているのかもしれませんが(テレビでちょこっと見た)。

また南相馬の南側などで見ましたが、田畑や牧草地だったところを復旧するのに除染や、ほったらかしだったために生えて枯れたような草木を取り除く作業をしていましたが、取り除いたものってきっと低レベルの放射能廃棄物になるのでしょうから、集めてどこかで処分しないといけないのでしょう。この区域じゃない所だったら枯れ草なんて焼いてしまえばいいのに、それもできない。するとやはり時間や人手がかかってしまう。よって手をつけるまでに時間が経ってしまう、なんて構図になっているようにも見えました。(無論ある一定以上線量が高いと作業もできないのでしょう)

またこの色の着いている範囲の外側には線量も落ちてきて帰宅しても大丈夫な場所が増えてきているそうなのですが、そこに戻る人はかなり少ないそうです。どうしてかというと、例えば病院や商店といった生活基盤になるものが一緒に戻らないと生活できないですし、戻ったとしてもその方々が生業にしていた例えば農業とか林業などが立ち入れない区域内だったとすると仕事もできません。やはり街の大半が戻らない限り生活できないので戻れないということのようです。

じゃぁ原発の封じ込めや除染がすすんで、放射性物質の移動なんかが完全に押さえられたら戻れるのか、というと、なぜかそういう感じがしません(あくまで根拠のない感じなのですが)。たぶんまき散らされている放射性物質を完全に取り除くというのは困難を極めるだろうということと、実際問題としての原発の完全なる廃炉は計画はされていたとしても完全に見通しの立った作業工程ではきっとないだろうと思うからです。まだまだこの先にいろいろあるんじゃないかと想像してしまいます(無論関係する方々は日々ちゃんと考えてやってるんだと信じています)。ということは、ひどい話を想像してしまいますが、避難させられた方々は戻ってこられず、もし戻ってこられたとしたらそれは何代もあとの子孫なんじゃないかと思うのです。ということは誰一人もともとの景色を知っているものはいないという状態。喩えが悪いですが、「昔、戦争があったときに空襲でこの街は全部燃えてなくなったんだよ」とか「昔、原子爆弾が落とされてこの街は壊滅し、長い間放射能で苦しんだ人たちがいたんだよ」と同様に「昔、ここで原子力発電所の事故があって、長い間誰も住んでなかったんだよ」「へー、いつ頃のお話?」「お父さんのひいじいちゃんの時のお話だよ」というようなことになりかねません。すると、これはもう復興とか復旧ではなくて、また一から新しく街ができてゆく新興と呼んだほうがいいんじゃないかと思うのです。

もし本当にそんなことが可能なら(避難されてる人や、関係する人には全くもって申し訳ない想像なのですが)行政や事故を収束したがっている側は、この人が一度住めなくなった地域を(原発も含めて)全部壊して、一切合切削り取って何もない状態にして(そのどけたものをどこに持って行くかはさておき)、一から新しい町づくりをしたほうが楽だ、と考えてしまうんじゃないかと勘ぐったりします。誰もながい期間戻れない時期がつづいてみんな諦めてしまえばそれも可能になっちゃうんじゃないかとか思ったりします。「帰還困難区域」という名称は、戻りたいと切に願う人々の希望と、本当はすべて無理なんだということを隠蔽するための行政側の苦肉の策(最初から戻れないを前提にすると全責任とらねばならないから)の、思惑のはざまでつけられた名前のようにしか見えないです。

付け足しのようになってしまいますが、それでも線量が減って大丈夫になった地区に戻ってなんとか生活を元に戻そうとしている方もおられます(区域の境目ぐらいにちらほらみられた)。そんな方々が早くもとの生活ペースに戻ることを祈るばかりです。

帰還困難区域って?@浪江町

帰還困難区域って?@浪江町

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ぐちゃぐちゃ書きましたが、僕の感じたことは、この原発事故の被害が及んでいる範囲は容易には元に戻らないだろうな、ということでした。それも10年20年というレベルではなくもっと長い期間かかるだろうなと。ということは僕たちはその結果を知ることはできないかもしれないのです。そう感じたのが、この区域に感じた怖さだったのかもしれません。

未だにこの区域のことは腑に落ちないというか、自分でもどう感じているのか自分ではっきり分からないです。また行くと違う感想を持つかもしれません。なので早くもう一度行きたいです。そして時間をかけて見て、どう思うのか、どう感じるのか、知りたいなというのが、今の僕の心持ちです。

2014.3.9 たけい

 

 

 

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