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震災

21年

20160117

1995年の今日から21年が経った。今朝も地震が起こった時間の前に起きてテレビの前で黙祷する。21年目になる今年は昨年より三宮の東遊園地に集まったひとは少なかったらしい。だいぶ前から少し雰囲気がしんどくなってここにはいかなくなった。ボランティアの方々も高齢化していろいろな活動を続けるのが難しくなってきたので止めてしまったり、若い世代に交代してきたりしているらしい。

6時前のベランダに出る。空気は冷たく、まだ暗い。21年前のあの日はこんなに寒く、そして暗かったんだろうか?と考える。記憶に残るあの日はなぜか明るく、寒さを感じていなかった。ただただ呆然と、というよりは、興奮していたのかもしれない。

当時JR灘の駅前に住んでいた。あの辺は震度でいうと7かそれ以上あったところ。ちょうど16日が月曜日で成人の日の振替だったので休日で、友人の結婚式に出て、遅くに帰ってきた次の朝だった。眠っていたところを地鳴りで起こされ(地鳴りというものも初体験だったのだが、その低音の恐ろしさに意識が目覚めた)寝ぼけ頭には到底何が起こっているか理解できないような状況にいきなり投げ込まれた。揺れているとかそういうことすら判らないぐらい揺すられ、布団にしがみついて叫んでいただけだったように記憶している。

ワンルームの部屋の中はむちゃくちゃになり(真っ暗だったので何もわからなかった。後から確認すると頭の上をテレビが飛び越していたり、ラックが倒れ込んでいたりしたが、幸いにもすべて体に当たらないところだった)、這々の態で部屋を出、ゆがんで開かないマンションの扉を蹴破って(すいません)外に出て、地面が割れてるのを見たけれど、まだ地震だとはわかってなかった。何かとてつもないことが起こったんだ!ということしか理解できずにいた。そのうち近所の人がラジオを持って出てきて、6時からの浜村淳さんの番組で彼が「地震です」といった一言で、ああ、これは地震なのか、と気づいた。

その時の空は明るく、寒くはなかった、ように覚えている。少し時間が経っていたから?

ラジオの声は情報も少ないためか、大阪市内で怪我をした人が何人かいる、とか、少し火事があるらしい、と伝えていたが、目の前では倒壊している家はあるし、遠くには(長田とかだ)何本も煙が立ち上っていた。明るかったのは、昔、父が堺や神戸の空襲をみた時に「明るくて綺麗だった」(父は小豆島にいた)といっていたように火事が明るかったのかもしれない。か、もう少し時間が経ったとき明るくなっていたけれど立ち込める煙で曇天の夕方のようになってた記憶と混同しているのかもしれない。その頃になると雪のように灰が降っていた。

こんな記憶も20年以上の歳月が経つと薄れてくるし、ニュースや写真集で見る映像と混同していってしまう。忘れたらいけないとか寂しいとか悲しいとか思うのと同時に、忘れないとやってられないとも思う。これは両方本当のこと。きっと忘れるのではなくて外からやってきた経験が自分のものになってさらには自分の一部になり、表面的に記憶というものからは薄れるけれど、体が体験的に覚えているという状態になっていくのかも。自然に自分の体の中にあって、たまにそっと覗けるような自分だけのものになって、それでいいんじゃないかと思う。

お昼の震災関連のイベントで震災をしらない世代の子供達が「教えてもらったことをまた伝えていくことが大事」「コミュニティー作りをしていきたい」というようなことを言っていて、その通りなのだけれど、見聞きする知識と体験は天と地ほどの差があるし、体験を体験として伝えていくのはとても難しいと思う。もしかすると文字や数字や写真で整理されたことを学習するより、語り部(でなくてもいい、おもしろ怖く話せるなら誰でも)が、むかーしむかしーみたいな話にして怖い話として伝えた方が、肝心なことは伝わるのかも、とか思う。

未だに神戸の震災を苦しむ人も少なくなくいる。東北も他の地域も災害にあった人はたくさん。みんなに平安が訪れますよう。

PS
震災後によく神戸で、いまでは全国の被災地で歌われる「しあわせ運べるように」という歌、いい歌だなーと思って聞いてるんだけど、最初に「傷ついた神戸を元の姿に戻そう」と言ってるのに、サビで「生まれ変わる神戸のまちに」って言ってるのが変な感じがする。まあ元に戻すことは無理なんだけど。元の姿、じゃなくて、元気な街、とかにしたほうがよかったのかなあ。

4年て何日ですか?

20150311

誰だって忙しい。やりたいことも、やらなければならないこともたくさんあるのは分かってる。でも、たった1分でいいから、想像して欲しい。いま、まさにいま、同じ時間をそう遠くないところで寂しい思いをして過ごしている人が少なくなくいるってこと。ちょっとぐらいいいじゃない、仕事さぼったって、何かを中断したって。今でなくてもいいから。今日という日のどこかであれば。今日でなければ意味をなさないことがあるんだから。

もしそんなこともできないというのなら、許されないというのなら、なんて貧しい心だろう、なんて貧しい国なんだろう。大切なことを忘れてさせてしまったそんな国はいずれ崩壊してしまうだろう。何か難しことをしろと言ってるわけじゃない。別に何かを背負えってっ言ってるわけじゃないし、分かち合わなければと言ってるわけでもない。そんなことできっこない。どんな物事もそれを経験した人以上に感じることなんてできない。立場を入れ替えたとしても、それが何かの解決になるわけでもない。ただ単純に、まっすぐ、思いやりたい。いや、やりたい、という言葉が違うなら、そう、思いを寄せてあげたい。具体的に、物理的な何かの行動をできなくても、そうやって思いを寄せることでできることはきっとある。それで心安らぐことがあると信じてる。自分が傷ついているとき、手を差し伸べられなくとも、どこかで祈っている人がいるってことを、見てくれてる人がいるってことを、感じられたら、少しは気持ちが楽になるんじゃない?

だからちょっとだけでいいから想像してみて。あなたが、ある日突然「今住んでいるこの家を出てください。手に持てる分だけ荷物もって。さあ早く!」といわれて、知らない土地にある四畳半のアパートに連れて行かれる。周りは知らない人ばかりだし、便利なところでもない。そこで4年いつづけるってこと。そしてそれがいつ終わるかわからないってこと。もともと住んでたの家はあるのに。

または、住んでいた町が綺麗になにもなくなって、そこに新しい街を作ろうとしている。でもその土地へ戻るのにまだ2年も3年もかかりそうだ、もう4年も待ったのに。それに、たとえ戻れたとしても親しかった隣の人が戻ってくるとは限らない。住み慣れていたはずの街が違う街に見えてしまうかもしれないという不安。

もっと想像してみて。いまのあなたなら、そんなことたいしたことない、耐えてみせる、打破してみせると思えたとしても、いまあなたが70歳だったら?80歳だったら?歩くことが心許ない立場だったら?

ぼくたちは明日という日を信じられるから、今を楽しんでいられる。どこかに自分にとっての拠り所が、帰る場所が、戻る部屋がある、という幸せがある。それは誰もがもてるはずのもの。この国では、この間までは。でも、明日がどうなるのかわからない、いくらか先になれば陽がさすようになるかどうかもわからない。そんな先が見えない中での、仮の住まい、仮の仕事、仮の姿。「仮」だらけのそんな足元不安定な状態が4年続いて、自分ではどうしようもない状態って、どんなだろう。そういうとき助けになるはずの国は、自治体はなにしてるんだろう。国って、自治体って、誰?

被災地の現場はみんな、とても一生懸命にやってる。頑張ってる。それは知ってる。なんとか早くこの状態を改善/解決しようと必死になってる、と思う。とても困難な場所での仕事も進めてる。でも、現場はそうでも、その舵取りするところがバカだったら?教えられた話と、書かれた数字だけで物事判断してたら?ましてや自分の損得だけで動いてたら?砂場でお城つくるのにショベルカー買ってきて、それで土砂積み上げて「いい感じでしょう?」とか言ってたら?

国は復興を加速するんだというよくわからない台詞を吐く。加速したら復興するものなの?きみたちが復興といっているものは見える形があるものだけなのか?それでもいいから加速するというなら、東京でやるとかいってる何かの大きなイベントに割いてる力をもっと向けるべきじゃないの?というか順番間違ってるんじゃない?いやいや、復興あっての国の成長、国の成長なくして復興なしでしょう、経済あっての復興でしょう、というかもしれない。そりゃぼくたちは国が築いたシステムの中で暮らして行けてる。でも国を形作っているのはシステムじゃない、人間と土地でしょ?システムを維持するためだけのシステムというのは結局誰も救えない。でもそうなってきてるように見えるのは僕だけ?

きっとみんなで、なんとなく効率よく、都合良く、つぎはぎだらけでもなんとか機能してるシステムをあまりに大きく育ててしまったがために、それを操作してる/されてる人間はそのシステムの末端がどうなってるか見えない/見なくてもいい、と思ってるんだろう。あと、ネットとか一見便利そうなツールが与えられたおかげで、そこを覗けば何でも見て知ることができると勘違いしてるんだろう。肝心なことはあんな小さなモニタ越しには伝わってこない、そんな当たり前のことも忘れるほど。

だから、今日だけでもいいから、そんな色眼鏡は外して、普通に当たり前の感覚になって、手を休めて、モニタから顔を上げて、窓を開けて、遠い空を眺めて。復興とかに関わって大きな仕事してる人でも、勉強中の人でも、ぜんぜん関係なく夕飯を作ってる人でも、なんでも誰でもいい。ちょっと想像する。それで救われることはあるし、ちょっとはまともな方向に向くかもしれないから。そう信じてるから。

4年て何日ですか?何回ご飯食べましたか?何回笑いましたか?何回泣きましたか?何度家のドアを開けましたか?知人の子供はどれくらい大きくなりましたか?あなたはどれくらい変化しましたか?

4年て何日ですか?

20年の節目

20150117

少し時間があいてしまいましたが、先月の17日で阪神大震災から20年が経ちました。やっと、なのか、もう、なのかなんとも表現しにくいのですが、普通の感覚で考えたら長い年月ということになるのかもしれません。なので普段の生活をしていると、もうすっかり過去のことになってしまったかのように思ってしまいます。しかし、先日の震災当日に報道された映像などを見ていると、震災は全然過去のことではなく、未だに生々しい今の感覚として感じている人も少なくないんだなと思いました。

でも、ぼくはこの20年がひとつの節目になる/なってしまうんだろうなと思います。20年といえばその頃生まれた子供たちが成人を迎えるわけで、ある統計では神戸市では震災を知らない人の人口比率が44%にもなったそうです。被災して亡くなった方、立ち退いて遠くへ移らざるを得なくなってそのままの方、20年の間に亡くなった方、そして新たに産まれたり神戸にやってきた人たち。確実に人は流れ入れ替わり、知らない人がたくさんいても全然不思議ではありません。震災のことを他人事や余所事のように感じる人が増えて、記憶や記憶が風化していくのはとても残念で寂しいことだけど、それは仕方ないことであり、もしかすると必要なことなのかもしれません。

もちろん忘れ去ったり記憶を葬り去ってしまえというわけではないし、体験した人間が記憶し思い出し伝えていくことはとても大切なことです。けれども(そんなことはないと思うんだけれど)体験したことの悲しみや喪失感に引きずられていつまでも悲しみ続けているだけという状態からはそろそろ卒業しないといけないんじゃないでしょうか。と言いつつ本当はほとんどの人はもうそうなっているのに、メディアの報道を見ているとどこか悲しむために悲しんでいるように(もしくは悲しさを過剰に演出しているように)見えてきてしまい、そうなって欲しくない何かか誰かがいて、そんな雰囲気を醸し出そうとしているんじゃないか?と思ってしまいました。

震災は年月が経ってもなかったことにはできない、たしかにあった出来事です。そしてそれを体験したたくさんの人がいて、その体験も感じた悲しさも消えることはなく、もうそれはその人の一部になって今という時間を生きていっている。街が再生されて綺麗になっていたとしても、未だに震災のときのまま土台だけ残して空いている土地も少なくなく存在し、街もまた震災の記憶をどこかに含んだまま新しく踏み出している。もうそんな段階に入っているんだと思うんです。だからもっと(変な言い方だけど)肯定的に震災の記憶を/悲しみを受け入れて、昇華したり糧にしたりしながらともに歩んで行く、そんな気持ちになる、そういうふうに被災者もそうでない人も社会もその他有象無象も一緒に変わっていくんだということを意識する時期なのではないでしょうか。それが20年というタイミングなんじゃないのかなと思うのです。

たぶん表立って阪神大震災が取り沙汰されることも少なくなっていくだろうし、ますます記憶は薄れ、伝えるものも形骸化していくでしょう。でもぼくは忘れません。ときには思い出すし、機会があれば伝えようとするでしょう。それはごくごく個人的なことでいいと思っています。社会としてはこれらをきちんと記録して教訓とし、追悼と感謝の念を忘れずにあればいいと思います。外から貼られる/貼りたがられるレッテルはもういらない。

今年はそんなことを、思いました。

でも、20年の経った神戸でさえこんな風に思うのだから、まもなく4年を迎えるもっともっと被災地が広かった東北はいったいどうなるんだろうと心配しています。また東北いきたいです。

改めて、被災した方々、それにつながる人たち、力を尽くしてくれた方々、思いを寄せてくれた人々、すべての人に追悼と感謝を。

2015.2.4 武井努

東北再び

 

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もうだいぶ前のことになってしまいましたが、9月の頭に3月につづいてまた東北をぐるっと巡ってきました。今回は前回と違って被災地を見て回る以外に別用もあったので、それと兼ねての旅行となりました。前回は震災から3年目にして初めてだったので、目の当たりにした状況というのがいったいいつから続いているものなのか、そして復興作業がどれぐらい進んだものなのかは全然わからなかったのですが、今回はそこから半年経ってどう変化したかを見ることができました。

今回は岩手は釜石から南三陸の海岸沿い、宮城は石巻からほぼ全域、福島はまた相馬から浪江町の手前までをうろうろしました。津波被害のあったところは松島などの観光地を除いては堤防工事がまず進められていました。前回は宮城の南の方で堤防が作られつつありましたが、それがどんどんのびて行ってるようでした。福島の方が工事は遅れているように見えました。岩手のリアス式海岸の入り江もまずは堤防や護岸工事を進めているという段階で、半年前からは変化はあるものの、まだまだ先は長いように見えました。また特に宅地にするような(自治体によっていろいろ町の再生計画が違うでしょうから一概には言えないけれど)ところは護岸+土地の嵩上げをするようで、近隣の山が切り崩されていっていて、いいようにいうと急ピッチで工事が進められているという感じですが、逆にいうとすごいペースで景観が破壊されていってるという印象を受けました。

陸前高田3月

陸前高田3月

陸前高田9月

陸前高田9月

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区9月

南相馬小高地区9月

宮城・福島県境(宮城方面)3月

宮城・福島県境(宮城方面)3月

宮城・福島県境(宮城方面)9月

宮城・福島県境(宮城方面)9月

とくに広い土地が浸水した陸前高田や本吉地区なんかでは大量の土砂が運び込まれ土地を十メートル以上嵩上げするらしいのですが、半年前にはその土砂はほとんどなかった状態でしたが、半年経って運び込まれた土砂はすごい量でした。が、全体から見るとそれはまだまだ足りてないという状況で、どのくらいで嵩上げのための十分な土砂が運び込まれ、整地され、宅地などになるのか、というのは想像もできず、まだまだ先は長いんだろうなと思わされました。仮設住宅の期限もあるだろうし、町の再生計画の是非もあるだろうし、そもそも住民の体力の持続力もそう長くはなく、いくらでも待てる訳ではないだろうし、、、、果たしてこの基本的な方針がよりよい選択なのかどうか、疑問を感じてしまうところもあります。でも、何か動かさねば何も進まない、ということなのだろうか、と、見てるだけの僕にはその程度しか言えないです。

またこの夏は非常に雨の災害が多かったので、こうやって近隣の山々を乱暴に削ったり、あちこちに積み上げたり、そんなことしていると別の災害を招かないか想像すると怖かったです。現にいっているときも台風がきていたり、仙台や石巻で冠水するほどの短期間の大雨が降ったりと降雨の被害が出ていました。そのあとには立て続けに台風もきましたし。今年はそういう年なのかもしれないですが、とにかく二次災害のようなことにならなければいいなと思います。

また放射線被害で立ち入りが制限されつづけている福島県ですが、3年経ってだいぶ規制範囲が狭くなって来ていて(放射線量は下がって来ているけども、という感じ)帰宅してもいいような、もしくはもうすぐ帰宅できるようになる、というような場所が増えているようで(南相馬)、直接地震や津波の被害のなかった家屋は手入れされていたり(でも住んではいない)、周りの家屋が津波で1階部分が破壊されているにも関わらず綺麗に修繕してある家があったり(でも近所では家屋が取り壊されたりもしてるところもあり)と、帰宅したいけれどあきらめた方/帰宅できることに望みを賭けている方のように、同じような場所でも分かれてきてるのだなと感じました。それでも特に浪江町や双葉町はそのままだし、南相馬でもまだ戻れない場所がたくさんあり、みんなが戻れないことには町が元に戻らないので住めない、ということなんじゃないかなと感じました。ここは津波の被害地域以上に深刻で、いろいろ頑張って作業されている人をたくさん見かけましたが、何がどこまで進んでいるのかはあまり分からなかったです。ただ、放射線被害が軽減された場所においてはがれき撤去が進んだり、除染もいちだんと進めているな、という風には見えました。

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区3月

南相馬小高地区9月

南相馬小高地区9月

ただ、3月に行ったときと違って田畑が復活しているところもあったり、単に草がぼうぼうと生えているところもありでしたが、全体に緑色の景色だったので、被災地の荒涼たる姿という感じではなかったです。だからといって何かが変わったわけではないのでしょうが。でも草木というのはほっとするものなのですね。

中央では2020年のオリンピックのための工事も急ピッチで進んでいて、そのために東北復興のための人足が不足していたり、資材が高騰したりしているという話もききます。決してオリンピックを否定する訳ではないですが、せめておなじように注力できないものかと思います。そりゃオリンピックは国を挙げての事業で出場する選手にとっても、それをめざす若者たちにとっても、観戦するたくさんの人々にとっても夢や希望を与えることになるかとは思いますが、せめてそれはみんなが同じ平安な気持ちで臨むものにならないかなと思います。今の状況をみていると、穿った見方をしなくても東北が置き去りにされてるという感が否めません。結局金を持つもの集めたいものの経済活動の一環だ、としてしかとらえられないようなやり方でのオリンピック開催ならばはなはだ疑問が残ります。

これからまた厳しい冬がきて、やがて丸4年を迎えることになるのでしょうけど、被災してから4年経ってもぜんぜん状況が変わらないとはいったいなんなんだ?のようなことにならないようになればいいなと思います。被災地の方々が平安な気持ちになれる日が少しでも早く来るよう祈っています。少しでもと思ってチャリティーなんかもやりますが、それは微々たるものです。なので、とにかく志ある方はボランティアとはいわないから、単に東北に遊びに行ってください。景色はいいしご飯はうまい、空気もうまい、いいところです。僕らはそれぐらいのことしかできないのですから。

カッパ淵(岩手 遠野)

カッパ淵(岩手 遠野)

森の図書館(岩手 大槌町)

森の図書館(岩手 大槌町)

瑞巌寺(宮城 松島)

瑞巌寺(宮城 松島)

中尊寺(岩手 平泉)

中尊寺(岩手 平泉)

東北ぶらり旅:その4 原発災害地について思う

(つづきです。長文乱文です。前のはこちら

たぶんこれが最後です。この文章も完全にぼくの個人的な見解というか、見て感じたことを書くので、不適切な表現があるかと思いますし、誤った部分もあるかもしれません。とくに被災された方々には失礼にあたることや神経を逆撫でしてしまうことがあると思います。でも、思ったことをそのまま書きたいと思います。あくまで個人の意見です。

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広い範囲に渡って生じた東日本大震災の被災地の中でも、この原発による災害を被った場所は、被災地ではなくて、被害地、と呼ぶべき場所になっていると思います。いろいろ見方はあると思いますが、ここに関しては完全に人的ミスによる被害です。もちろんその引き金となったのは地震や津波であることは間違いないですが、原発がそこに存在すること、そもそも原発という代物を選択したこと、それをもともと考えられた耐用年数を遥かに超えて使い続けた/使わざるを得なかったこと、という点では人的ミスによる被害といえると思います(もちろん震災当時の原発のコントロールミスもあったと思います。それは現場のコントロールもそうでしょうし、トップの判断ミスもでしょう)。一時”想定外”という言葉が世間を賑やかせましたが、すべてのことを想定するということは、人間にとってはかなり難しいことだと思います。が、過去に原発というものを必要あって選択した。それは誰が悪いというわけではないと思います。原発が日本に導入されようとしたとき、もちろんいろんな利害関係や野望、希望、必要があったと思いますし、誰もが少しずつ公益と利害をもってことにあたったと信じたいです(まったくの利権だけのために動いたとは思いたくない)。

でも結果的にいまは「帰還困難区域」と呼ばれているよくわからない名称の場所は無人の街となっていて、やはり無人の「警戒区域」や、住むことはできない「居住制限地区」、一応住めることになっているけれどほとんど戻ってくる人がいない「避難指示解除準備区域」などなど、地震や津波の被害は免れたのにいまだに住人が戻ることのできない/していない区域、これは被災ではなくて、被害なんじゃないでしょうか。

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今回の旅でほんと悔やまれるのは(他の地域での行き当たりばったりというのはとても良かったのですが)この原発被害にあった地域だけはちゃんと調べてから行動すべきだったということです。もちろんいまでも線量は他所の地域に比べては高い部分もあるようですので、長居することは危険だと思うのですが、もっともっと見るだけでいいから、南相馬や浪江町、できれば大熊町や双葉町なんかも通ってみたかったのです。うまくやれば福島第一原発だって見えるところにもいけたと思います。今回僕が通ったのはこんなルートでした。

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何も知らずに、とりあえず仙台から南下して、浪江町ぐらいまでいったら、どこかを通り抜けて(きっと迂回させられるだろうことはわかっていた)南側に出られたらいいなぁ、なんて考えてR6を南下していったのですが、結局は浪江町のはずれぐらいで行き止まり(許可ある車しか通れない)、また浪江町や双葉町自体が自治体として立ち入りを制限しているので、僕のようなよそ者は立ち入ることができずに、R6を戻って迂回路を探しましたが、上記の図のように、浪江町自体や警戒区域、帰還困難区域は通れないので(通り過ぎることすらできない)、県道258、県道34、県道12を通って南相馬から飯館村、川俣町に抜けました。もし浪江町を迂回するつもりなら川俣町からR349で二本松市、田村市を抜けて、R49でいわき市に出て、というルートしかなさそうです。細かい県道など通れたとしても必ずどこか立ち入り禁止のところにあたるので、かなり大回りする必要がありました。なので飯館村を走ってる時点ぐらいでもう16時ぐらいだったので、迂回して原発の南側に出るということは今回は諦めたのです。

でも、浪江町のほんの一部や、もともと警戒区域だった南相馬の南部分、今でも居住制限がある飯館村などを通って見た光景は異様な感じでした。言葉で説明するのは難しいのですが、いわゆる廃墟的なものではなくて、変な表現になりますが、SF的な、ある日街中の人が蒸発してしまった的な感じでした。それは地震で倒壊したり津波で流されたような建物はほとんどなく、しかも住んでいた人たちは避難したとはいえたまに戻ってきて手入れをする方もいらっしゃったり、除染などをしたために、建物も、田畑(これらは津波区域と同じように更地のような感じになっている)も牧場も荒れていないからでした。なので、街はきちんとしているのに人だけがいない、という不思議な状態で、それが異様さの一因であったと思います。大熊町や双葉町はもっと荒れたりしているのかもしれませんが(テレビでちょこっと見た)。

また南相馬の南側などで見ましたが、田畑や牧草地だったところを復旧するのに除染や、ほったらかしだったために生えて枯れたような草木を取り除く作業をしていましたが、取り除いたものってきっと低レベルの放射能廃棄物になるのでしょうから、集めてどこかで処分しないといけないのでしょう。この区域じゃない所だったら枯れ草なんて焼いてしまえばいいのに、それもできない。するとやはり時間や人手がかかってしまう。よって手をつけるまでに時間が経ってしまう、なんて構図になっているようにも見えました。(無論ある一定以上線量が高いと作業もできないのでしょう)

またこの色の着いている範囲の外側には線量も落ちてきて帰宅しても大丈夫な場所が増えてきているそうなのですが、そこに戻る人はかなり少ないそうです。どうしてかというと、例えば病院や商店といった生活基盤になるものが一緒に戻らないと生活できないですし、戻ったとしてもその方々が生業にしていた例えば農業とか林業などが立ち入れない区域内だったとすると仕事もできません。やはり街の大半が戻らない限り生活できないので戻れないということのようです。

じゃぁ原発の封じ込めや除染がすすんで、放射性物質の移動なんかが完全に押さえられたら戻れるのか、というと、なぜかそういう感じがしません(あくまで根拠のない感じなのですが)。たぶんまき散らされている放射性物質を完全に取り除くというのは困難を極めるだろうということと、実際問題としての原発の完全なる廃炉は計画はされていたとしても完全に見通しの立った作業工程ではきっとないだろうと思うからです。まだまだこの先にいろいろあるんじゃないかと想像してしまいます(無論関係する方々は日々ちゃんと考えてやってるんだと信じています)。ということは、ひどい話を想像してしまいますが、避難させられた方々は戻ってこられず、もし戻ってこられたとしたらそれは何代もあとの子孫なんじゃないかと思うのです。ということは誰一人もともとの景色を知っているものはいないという状態。喩えが悪いですが、「昔、戦争があったときに空襲でこの街は全部燃えてなくなったんだよ」とか「昔、原子爆弾が落とされてこの街は壊滅し、長い間放射能で苦しんだ人たちがいたんだよ」と同様に「昔、ここで原子力発電所の事故があって、長い間誰も住んでなかったんだよ」「へー、いつ頃のお話?」「お父さんのひいじいちゃんの時のお話だよ」というようなことになりかねません。すると、これはもう復興とか復旧ではなくて、また一から新しく街ができてゆく新興と呼んだほうがいいんじゃないかと思うのです。

もし本当にそんなことが可能なら(避難されてる人や、関係する人には全くもって申し訳ない想像なのですが)行政や事故を収束したがっている側は、この人が一度住めなくなった地域を(原発も含めて)全部壊して、一切合切削り取って何もない状態にして(そのどけたものをどこに持って行くかはさておき)、一から新しい町づくりをしたほうが楽だ、と考えてしまうんじゃないかと勘ぐったりします。誰もながい期間戻れない時期がつづいてみんな諦めてしまえばそれも可能になっちゃうんじゃないかとか思ったりします。「帰還困難区域」という名称は、戻りたいと切に願う人々の希望と、本当はすべて無理なんだということを隠蔽するための行政側の苦肉の策(最初から戻れないを前提にすると全責任とらねばならないから)の、思惑のはざまでつけられた名前のようにしか見えないです。

付け足しのようになってしまいますが、それでも線量が減って大丈夫になった地区に戻ってなんとか生活を元に戻そうとしている方もおられます(区域の境目ぐらいにちらほらみられた)。そんな方々が早くもとの生活ペースに戻ることを祈るばかりです。

帰還困難区域って?@浪江町

帰還困難区域って?@浪江町

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ぐちゃぐちゃ書きましたが、僕の感じたことは、この原発事故の被害が及んでいる範囲は容易には元に戻らないだろうな、ということでした。それも10年20年というレベルではなくもっと長い期間かかるだろうなと。ということは僕たちはその結果を知ることはできないかもしれないのです。そう感じたのが、この区域に感じた怖さだったのかもしれません。

未だにこの区域のことは腑に落ちないというか、自分でもどう感じているのか自分ではっきり分からないです。また行くと違う感想を持つかもしれません。なので早くもう一度行きたいです。そして時間をかけて見て、どう思うのか、どう感じるのか、知りたいなというのが、今の僕の心持ちです。

2014.3.9 たけい

 

 

 

東北ぶらり旅:その3 津波被害について思う

(つづきです、長文駄文。前のはこちら

その1、その2とただ単に旅の記録を記しましたが、書きたかったのはここからです。ここからはかなり僕の偏見というか僕の視点から感じたことになるので、もしかするとあまり正確でなかったり不適当な表現があるかもしれませんが、そこは容赦ください。あくまで個人の意見です。

見たり聞いたりして感じたことをそのまま書きます。うまくまとまるかは分からないですが。

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今回の旅はへんな表現になりますが、とにかく震災を実感しに行くということが目的でした。少なくも神戸の震災を経験した人間(だけではないです。他にも大きな地震がありました)には地震の恐さは理解できることです。が、津波となると全く想像がつかないです。3年前の3/11にテレビの画面に映し出されていた状況、すなわち、木の葉のように翻弄される大きな船舶だとか、壊れてゆく大きな構造物、家が家をつぶし車が団子のように固まって流れて行く様子、田畑を生き物のように這って行く水流、神戸の震災を思い出させるような大きな火事、などなど、すごいとしか言いようのないそれらの映像は、その内容は理解できるけれど、目の前でみたらどんな感じがするのか、またはもしも自分の身に起ったことだったらどう感じるのか、なんてことは画面を通しては到底わからないものです。

そしてもう3年経ったというのもあるし、とくに被災地から遠い関西にはごくごく限られた情報しか入ってきません。またメディアを通して伝えられる情報も大きなトピックは伝わってきても、細々としたことは打ち捨てられているはずで、一体全体がどうなっているのかは知りようがありません。特に取り上げられたような南三陸とか陸前高田、大船渡なんていう地名は聞いたことあっても、それらがどんな場所で、どれくらいの大きさで、どんな位置にあって、なんてことは知りもしません。地図上で位置を知ったとしても、東北の地理に疎い西の人間にはどれくらい離れた場所なのかもわからない、という、分からないことづくめです。

今回車で行ったのもその広さが分かるかなーという安易な考えからでした。その1、その2で書いたように結局岩手の宮古市から福島の浪江町までの海岸沿いを走ったことになるのですが、だいたいの距離は340キロぐらいです。340キロというと大阪から広島ぐらいです。もしくは東京―名古屋間ぐらいです。僕が見た限りこの340キロの沿岸の海岸はすべて津波で流され更地になっていました。海に近い場所だけでなく、広いところなら海から2〜3キロなんて普通、大きな川沿いだと10キロ以上奥まで、小さな入り江はほとんど全部、です。僕は想像できないです、大阪から広島まで沿岸がずーーーっと更地になってるというような状態は。でも東北はそんな状態です。瓦礫が片付いただけ。そして上記したような被害の大きかった南三陸とか陸前高田という場所以外にも、岩手や宮城の北半分のリアス式海岸になっている所では、へこんでいるところが入り江になっていて小さな集落がある、という場所が無数にあります。それらがことごとく同じように何もない状態になっているのです。そんな場所も南三陸も同じように被災しているということは想像できたかもしれないですが、実際は知らなかったです。大きく報じられた場所だけでなく、同じようなことが無数に、しかも広範囲にわたって起きたんだ、ということを遠い場所にいる人間も知らなければならないと思いました。

今回走ったところ

今回走ったところ

大阪ー広島

大阪ー広島

実際走っていて、リアス式海岸のところ(岩手宮古〜宮城女川あたり)は入り江になるたびに更地が広がり、丘の部分には復旧用の資材があったり現場の基地があったり、残った集落があったり、というのの繰り返しで、それらを見続けていると「ああ、またか」「あ、ここもか」「ここも」「・・・」と、どこを走ってるのか分からなくなりそうなくらい感覚が麻痺していきました。そして仙台から南のゆるやかな海岸線の部分(仙台あたり〜浪江町)は、海岸から広いところでは5キロ以上、狭いところでも1キロぐらいの幅で延々と枯れた立ち木と草ぼうぼうの更地が続いてる状態でした。もともとは田畑だったと思うのですが、この広大な土地(というか平地のほとんど全部)が塩害になっているはずで、農地に回復させるためにはある程度掘り起こして塩が入った土をどけ、津波対策のために土地の高さをある程度かさ上げするためにまた土を盛ってやって、そこからようやく田畑を作り直さねばならないんじゃないかと思うと、もう呆然としてしまいました。もし自分がやると思うと途方に暮れてしまいます。(それでも現場の人たちは黙々と作業されてます)

そして(これはちょっと文句?になるかも、だけど)その仙台以南の海岸線は津波対策のための大きな防波堤が作られて行ってるのですが、仕方ないことなんだと思いますが、もう、まるで色気がないというか、味気がないというか、(農地が回復した後だったとして)もう今後は緑ゆれる田畑の向こうに海は見えないのです。遠くに海の青い色が見えて、草木は萌え、風鈴が揺れる軒下でスイカ食べる夏、みたいな風景はなくなるようなのです(想像ですが)。でも、仕方ないこと、なのですかね。。。

延々と続く建設中の防波堤

延々と続く建設中の防波堤

本当に津波が及ぼした被災範囲は広範囲すぎるなと思いました。しかも津波の被害がでたのは僕が走った部分の倍ぐらい(青森のおいらせ町から茨城の大洗町ぐらい)あります。実際に走って目にしてないところは想像ですが、どこもきっと似たような状態でしょう。そして復興/復旧作業はまだまだ、ほんとにまだまだ、のようです(いろいろ決まり事的なことがあるのだと思いますが)。新しく家が建ってる場所はまだわずかで、宅地も田畑もほとんどそのままです。何よりもまず道路、そして大きな産業については優先して復旧していってるようですが、個人的なものはまだまだで、一体いつになるのかというのもわからないようです。

現時点でも27万人を超える方々が避難生活を送っているそうですが、H27年度を目処に震災復興住宅(というような名前だったか)への移住が計画されているそうです。が、それもまだまだどうなるかわからないそうで、ある方に聞いたのですがが津波で家を流され仮設で暮らしている人(結構高齢だそう)が「仮設で死ぬのは嫌だ。せめて復興住宅まで頑張りたい」と言っているそうです。ぼくは幸いにも仮設暮らしは経験しませんでしたが、建ち並ぶ沢山の仮設をみて、しかも東北の冬は寒いですから、はやくその計画が進んだらいいのになと思いました。

****

走り回るだけではなく、印象的な風景に出会ったときは足を止めてじっくり眺め、写真を撮ったりしていたのですが、どう頑張ってもそこで見たものを写真などに写し取ることができませんでした。僕は別にカメラマンではないので上手く写せないのは当然なのですが、単にその場所の広さや雰囲気だけでもいいから他の人に伝えるための写真でいいのに、それすら撮れなかったです。あまりにも対象が広大で圧倒的すぎて。

陸前高田

陸前高田

陸前高田の諏訪神社の階段から撮った写真を繋いでみましたが、ぜんぜん分からないですね。ここで左右2キロ弱、奥行き2キロ弱あります。全部更地になっています。実際に見ていると果てしなく広い土地のように見えました。そしてこの目線の高さ近くまで水面が来たのです。この見えている景色が全部海中に没した、というのは想像できる範囲を超えてしまいませんか?

次は気仙沼の本吉地区です(海際にぽつんと建物が残っていた場所)。車を中心に180度ぐらいを撮ってみました。この場所で3キロ四方ぐらいです。

気仙沼 本吉地区1

気仙沼 本吉地区1

気仙沼 本吉地区2

気仙沼 本吉地区2

気仙沼 本吉地区3

気仙沼 本吉地区3

漠然と広いことは伝わるかもしれないですが、あの荒涼とした感じは全然でないです。

もうひとつ、南相馬の浪江町に近いあたりの小高区です。R6から撮影しているのですが、ここで左右は3キロぐらい、奥に見えるこんもりしたところ(貴布根神社がある)までは2キロほどです。ここは全部畑だったようですが、多分津波のときそのままという感じです。

南相馬 小高区

南相馬 小高区

ここもその津波の後にそのまま打ち捨てられた感がものすごかったのですが、それは写しとることができないような類いのものでした。

まぁ、カメラの性能とかもちろん僕の腕とかもあるのですが、やはりこれらの場所で感じた感覚はその場所でしか感じられないような種類の感覚でした。写真は意味は伝えられるけれど、感じたことは、この雰囲気というか空気感というか(もしかすると阪神大震災の時もそうでしたが、あの空気のなかに混じっている通奏音のようなノイズの音)が大きく影響しているのかもしれません。がらーんとしていて、かつ、非常時であるという感じ。これはやはり現地にいかないと感じられないことだと思います。

****

少し話が横に逸れますが、まだまだ瓦礫を片付けるとかいうような肉体的なボランディアも必要だと思いますし、物資的/金銭的な支援ももっと必要だと思います。が、今後もっと大事になるのは心を通わせることなんじゃないかと思います(当たり前と言われそうですが)。「絆」などという字を旗印にして大きなムーブメントを作り出したり、イベントを組んだりするようなこともとても大事ですが、たまにある大きな動きより、今もっと必要なのは小さくていいから常に存在して持続するようなことなんじゃないかと思います。もちろん被災地の人に直接会ったり、例えば仮設住宅を訪問したりするのが一番いいかと思いますが、もっと簡単なことが「忘れないでいること」、つまりは「みんなが思っている/心を注いでいるということを、現地の人たちが感じていられる状態を続けること」なんじゃないかと思います。どんな災害でもそうだと思いますが。阪神大震災を経験した方々は思い出して欲しいのですが、1月の地震のあと、例えば僕の住んでいたところだったら電気はようやくきたけれど水もガスもまだまだという3月に地下鉄サリン事件があって、世間の注目が(とくにメディアが)そちらに一斉に向いてしまったとき、自分たちのことが忘れられたような気がして寂しく感じませんでしたか?僕はそうでした。別に大きく注目され続けたいというわけではないけれど、忘れられたのかなと感じるとつらいです。復興が完了したりしていれば別ですが、まだまだ先も分からない時期だとそう思ってしまうものなんじゃないでしょうか。

阪神大震災のときも3年という時点はまだまだという感じでしたが、今回訪れた東北の場合は、まだ全然、という感じです。ぐるっと巡ってみて「なにか目処ってついてるの?」と思うぐらい復旧というか復興は進んでいないように見えました。ただこれは物理的にあまりにも対象が広大だからというのと、圧倒的に手が足りないからのようです(津波体験館で話してくれた館員さんもそう言ってました)。行くまでは「物資/人員をどっさり投資して、ちゃっちゃとやればいいのに。きっとどっかの頭悪い組織が利権かなんかでぐずぐずしてたりするか、どっかケチってるかサボっているに違いない」とか思っていましたが、現場はすごく頑張ってるなと思いました。しかし対象があまりにも巨大すぎるようなのです。これは行ってみないとたぶん感じられなかったことです。

とにかく現地にいってみるこが一番だと思います。別にボランティアじゃなくて、単に旅するだけでもいいし、僕のように興味本位で見て回るのでもいいと思います。いい観光地もあるし(松島楽しかった)、美味しいものもたくさんあります。積極的にその土地の人と交わったりしなくても、飲み食いしてみたり、うろうろするだけでも何かの足しになると思いますし、おのずとそこで現地の人と話す機会もできる(結構話し好きの人多そうな感触しました)でしょうし。会計のときとかに「美味しかったですー。神戸から来たんですよー」と言うだけで相手の方も「そうなんですか、どうもです」なんて感じで話に花が咲くこともありましたし、なかったとしても「あ、他所からきてるのだな」と伝わるでしょうし。

で、僕のように感化されて、行ってみたり、こうやって書いたり、周りの人に伝えたりする人も増えれば、思い出したり、思い続ける人も(そのチャンスも)増えて、「忘れないでいるよ」という見えないかもしれないけれど大きな力が伝わって、被災地の人も少しは安らいだり元気がでたり頑張ろうと思ってくれるのではないかなと思います。

****

今更ながらようやく実感しましたが、僕が今回この旅をするきっかけとなった、ある人に言われた「とにかく行ってみたら分かるから」という言葉は、ほんとに全くその通りでした。 津波という経験したことないことがらとその被害の大きさは行かないとわかりません。また行けばきっと少しでも被災地の役に立てると思います。とにかくチャンスがあればぜひ訪れて、そして見聞きしたことを周りの人に伝えることが大事だと思います。僕もチャンスあれば(もしくはまた作って)行きたいと思っています。

やはりとっちらかした、まとまりのない文章になってしまいました、すいません。。。

つづく

 

東北ぶらり旅:その2 あらまし(後編)

(長文駄文です。つづきです。前のはこちら)

[3/5]

残念なことに天気は雨でした。この日も北上するつもりだったのですが、天気予報によると岩手県は全面的に雪。一応備えはもってきてあるのですが、雪道となると極端に行動力が制限されるし、下手をすると突然の大雪により閉じ込められる可能性があるわけで、どうしようか悩みどころだったのですが、山間部はともかく沿岸部は雪には強いだろうという予想のもと、駄目になりそうだったら引き返すと決めて、出発しました。

ところが予想に反して天気はずっと雨のままでした。しかも北国は道路も積雪や凍結の対策もしてあるので、少し安心です。まずは震災当日の火事の様子が印象に残っている気仙沼港へ。建物が建っていたであろうところはまだ更地や更地前の場所も多かったですが、逆に既に建て変わったもの(海鮮市場とか)や建設中のものもいくつかあり、船も結構着岸できるようになってるようでした。が、港の一番奥の部分は建物が流されたまますべて空き地になっているような状態でした(その一角にヴァンガードがある)。

そのまま北上しまずは陸前高田を目指したのですが、宿を出るときにたまたま手に取った唐桑半島にある「津波体験館」という施設のパンフレットが気になったので、一度逸れて唐桑半島の先にある施設へ。水曜日でしかも雨ということで、見学者は僕だけ。なのでゆっくり見せてもらいました。もともとからあるビジターセンターの常設展示はこの唐桑半島に関するものだったのですが、いまは半分ほどが震災の写真になっていました。ちょうど今朝いた気仙沼市街地の写真がたくさんあったので、先ほど見た景色(もう片付いた状態)と当時の状態を照らし合わせながら見ていると、館員のおばさまが話しかけてくださり(近所の方だそう)、写真をいろいろ説明してくれました。神戸のときもそうでしたが、実際に体験した人から聞く話はほんとリアルです。

で、その目的としていった津波体験館ですが、、、、怖かった!(地震とか、恐怖がまだまだ体から抜けないです)

その後ついでに同じ半島内にある名勝 折石を見に行ってから半島を出て北上し、陸前高田へ向かいました。昨日は気づかなかったのですが、今日はあちこちの丘が拓かれていたり、削られていました。木材を確保するというよりは、高台に新しく住居地をつくるためか、埋め立てのために(低い土地はかさ上げすることになってるらしい)土を運ぶためのように見えました。

カモシカに遭遇♪

カモシカに遭遇♪

折石

折石

山を削っているところ多し

山を削っているところ多し

そして陸前高田。たまたままた道を間違って(ナビはないので、地図と目でみて走ってるのです。が、こうやって間違うことにより思わぬものに出会えることが多いです)しまったのですが、たまたま地図を確認しようと停まったところに諏訪神社がありました。津波のときに近所の人が逃げた場所です。高台への階段の途中も流されて仮設になっていましたが、その流された部分のさらに上(ビルだと5階ぐらいに感じた)のところに東日本大震災時の最高水位が記されていました。こんな高さまで海面がくるとは、全く想像できないです。そしてここから眺める陸前高田の平野。こんな広い土地がすべて流されたとは、、、想像を絶します。

諏訪神社@陸前高田

諏訪神社@陸前高田

陸前高田1

陸前高田1

陸前高田2

陸前高田2

陸前高田3

陸前高田3

陸前高田4

陸前高田4

そしてそのまままた北上し、ほどなく大船渡へ。ちょうどお昼になったのでふと見つけた「まんぼう亭」というお店でお昼ご飯。三陸めかぶ三色丼、めちゃ美味しかったです。この辺りは高台なので何も感じませんでしたが、港に降りるとやはり同じ光景。ここは防波堤の設置などが始まっていました。まだ水門など壊れたままの施設もありましたが。

三陸めかぶ三色丼♪美味かった

三陸めかぶ三色丼♪美味かった

大船渡商工会議所

大船渡商工会議所

高い防潮堤@大船渡

高い防潮堤@大船渡

ここからはR45とそのバイパスを使いながらどんどん北上。小さい入り江がつづくのですがどこも同じような状態。入り江は更地で護岸工事や土地の掘り返しなど。丘の部分は削られていたり、工事作業用の資材置き場や事務所になっていたり(ちょうどいまとぎれとぎれになっているバイパスは三陸自動車道となるようで、その工事もあるのかも)していました。釜石を越えていくころになると、どこも似たような景色でどこがどこだかわからなってくると同時に、気温が下がってきたのか雪こそふらないけれど海上も山の上も濃い霧(か、もや)がかかってきて視界は悪くなってきました。宮古市が近づくとJR山田線と並走していくのですが、線路がまったく使われていない状態だったのが寂しかったです。

で、ついに宮古到着!距離的にはそんな走ってないのですが、この時点で既に15:30頃。ここまできてさてどうするか?と考え、実はNHK朝ドラマ「あまちゃん」の舞台となった久慈にはあと80キロぐらいで是非行きたいとおもったのですが、着いた頃には暗くなっているだろうことと、久慈からはどこに出るにも遠い(最終的に今日は仙台に戻っておきたかった)ので泣く泣くあきらめて、せめての土産(?)にJR宮古駅と(そのドラマで出てくる北鉄のモデルとなった)三陸鉄道北リアス線を眺めてから、宮古を後にして盛岡に向かいました。

ここも知らずにいったので、結果的オーライでよかったのですが、宮古〜盛岡を結ぶ106号線はすごく高地を走っているため、雪がふったり、日没を迎えるとぐっと気温が下がって凍結の恐れがある道だったのですが、幸いにも両方とも見舞われることなく盛岡までいけました。だいぶ日が傾いてから走ってたのでよくわかりませんでしたが、この雪の時期の晴れの日にここを通ると景色綺麗で気持ち良さそうです。

R106の道の駅

R106の道の駅

そして夜の盛岡に到着。初めて来たのですがその大都会ぶりにびっくり。しかも北のほうなのに仙台より雪がない。だいぶ疲れたのもあってどこかで一休みとおもって調べてみると、駅からほど近い開運橋のたもとに「ジョニー」というジャズカフェがあるのが分かったので、早速そこに。昨日と同じパターン(笑)。実は陸前高田に同じジョニーと言う姉妹店があるのですが、そちらには寄れなかったので、ちょうどよかったです。

コーヒーのんでくつろいでいると、ママさんが話しかけてくださり、そっからマスター(つまりジョニーさん)ともいろいろ話を。ママとは彼らが大好きな秋吉敏子氏の話や一関のベイシーのマスター菅原さんの話などなど。えらく盛り上がってすっかり長居してしまった。めちゃ楽しかったです、ありがとうございました > マスター&ママ。そして腹も減ったので盛岡名物 冷麺を食べて仙台へ戻ったのでした。

盛岡 開運橋のジョニー

盛岡 開運橋のジョニー

「肉の米内」の冷麺

「肉の米内」の冷麺

[3/6]

昨夜は寝るのが少し遅かったので、起きてからもしばらくぼーっとしていたのですが、今日はこの旅路のクライマックスかもしれないので頑張っておきて朝ご飯を食べ、まずはおととい連絡とれなかった叔父に連絡。調べてみるとすぐ近所だったので早速会いに行く。叔父そしていとことはもう15年以上ぶり。叔母とは父の葬儀のとき以来。飼い犬のシーズーのチャッピーを囲んでとりとめもない話を。なんだか懐かしい雰囲気だった。堺に住んでいた頃はこういうことよくあったのになぁ。最後にお祈りをしてもらい(牧師一家である)出発しました。

今日は逆に一路南下、目指すは福島の南相馬。津波だけではなくて原発の被害もちょっと見てみたかったのです。

仙台を抜けて 名取市を通り、亘理町に入った辺からR6を離れて海沿いの県道へ。ちょうど津波が押し寄せた部分の真ん中ぐらいを通る道だったようで、周りは瓦礫こそないものの、すべてそのままの状態。長くゆるやかにまっすぐつづく海岸線は高い防波堤があちこちで造られている途中でした。ほったらかしになっている更地は乾いて砂埃が立ち、日本ではない他所の国を見ているようでした。

どこの国?

どこの国?

防波堤工事

防波堤工事

その道は県境で終わりだったのでまたR6にもどって福島県相馬市へ。途中でおいしい蕎麦を頂いて、やがて南相馬市へ。相馬もここ南相馬も沿岸部は津波に押し流されているのがありありとわかる感じでしたが(大半が田畑のようでした)、南相馬のあるところから突然様相が変わりました。そこまでは今まで見てきたのと同様、更地になっているか、その作業をしているところだったのですが、その南相馬の途中からはほぼ震災の時のままで、壊れた建物も流されたものものもそのままのように見えました。するとほどなく浪江町に。そう、さっきの南相馬の途中からは居住制限地区や避難指示解除準備地区で、人がいられない地域だったようです。

そのまま@南相馬

そのまま@南相馬

そしてその浪江町は様相が一変してゲートと出入りをチェックする警備員、そして出入りできる車両だけが行き来できる地域でした。あまりの様子の変わり用に僕も軽くパニックというかどうしたらいいか分からないような状態になり、結局はそのR6も双葉町の手前までしか行けず、右にも左にもいけないために(国が決めた規制以外に、浪江町自体が自治体として立ち入りを制限している)向こうに行くにも、郡山の方へ抜けるにしても、浪江町を通らないルートを通らねばならないので、だいぶ後戻りさせられ、結局飯館村、川俣町を抜けて福島市にたどり着きました。本当は浪江町をぐるっとまわって南側からできれば福島第一原発を眺めたかったのですが、峠道ばかりだし、もう夕刻になってきていたのであきらめざるを得なかったです。

しかし、その浪江町自体や南相馬、飯館村の制限されている地域にすごく異質な感じをうけました。一見するとすごく普通のまま(地震で壊れた建物もほとんどないし、除染のためか畑なども綺麗に更地になっている)なのですが、人が誰一人いない。例えば過疎で廃村になったようなところだったらもっと街自体が荒れてたりするのでさほど不思議な感じはしないのですが、通った場所はどこも綺麗なのに人がいない、すごく変な印象でした。この印象が人がいないということだけではなく、一体なぜなのかずっと考えながら車を走らせました。

帰還困難区域って?@浪江町

帰還困難区域って?@浪江町

福島市についたとき実は相当へとへとになっていました(考えすぎたか?w)。今日もいい店があったらクールダウンするために入れたらなーと考えていたのですが、見つけたお店はまだ開店前。時間をつぶしてからとも考えましたが、明日には帰宅しておきたかったので(しかも天気が悪くなりそうな感じだった)、その足で出発することにしました。往路のようにちょっと休んでから夜中に出るというのもだいぶ考えましたが、万が一大雪にでもなって出発できなくなったら(案の定えらく雪が降る夜になった)困りものなので、さっさと出発。福島西から東北道に乗り、いきなり雪に見まわれ、往路と同様磐越道は規制されていたので同じルートで帰ろうかと思っていたら、長野道の一部も規制がかかったため(北関東道を通ってるときに分かった)、関越道で鶴ヶ島まで戻り、さらに圏央道で八王子まで出て(なにがうれしくて東京都までいかねばならないのやら)、そこから中央道で帰るルートになりました。

飯館村通過中

飯館村通過中

でも昼前からずっと走ってるわけですからかなりくたびれていて、山梨や諏訪湖辺り、そして小牧あたりで仮眠をして(どこも寒かった。でも車に毛布を積んでいたので助かった)結局は3/7のお昼に帰宅したのでした。あー、長かった。でも意外と疲れてなかったです。

***

とりとめなくざーっと4日分のあらましを書きました。結局4日半、走行距離は(あまり頼りにならないメーターによると)2,900キロ余りでした。我ながらよく走ったなー(そして車も!)と思います。

津波で被災した地区はまた機会があれば訪れられたらと思いますが、原発の被害にあったところにはもう一度行きたいです。まだこれを書いてる時点でももやもやするこの気持ちをもっとはっきりさせたいです。

あらましはここまでにしますが、津波とか原発被害について思うことをまだつづけて書きたいと思います。

つづく

 

東北ぶらり旅:その1 あらまし(前編)

(長文駄文です)

この3月の最初の一週間が休みになった(というか前からなるのがわかっていました。というか、僕らの仕事は結構他人頼りの部分もあるので、空くことはよくあるのですが、こんなにまとまって空くのは初めてかも)ので、何かしようか、どこかに行こうかなどと以前から考えていたのですが、やはり東北の震災から3年になることだし、久しく東北はいってないので行くのはいいかもしれないな、とはなんとなく思っていました。でも、僕はほんと腰が重いので考えるだけで実行しないなんてことはままあるのです。

演奏で震災のチャリティーなんかはやっていても、ボランディアはやれるタイプではないし、何かきっかけ(言い訳ともいう)がないとなかなか東北は行くチャンスがないということと、以前から「なんでもいいからとにかく一度行ってみてほしい。行くだけでいいから」と何人に言われていたこともあり、ようやく「じゃあ行ってみるかな」とは思いました。しかし前日ぐらいまでまだ迷っていたりしました。でもこれから先こういうチャンスが来るのを待っていたら、一体いつになることやらわからないので、腹くくって行くことに決めました。しかも車で。車で走って行くというのはこの時期には無茶なのは分かっていたのですが(それでも相当ナメていたとは言われても仕方ないです)、折角行くのであればいろいろ実感したかったのです。東北は飛行機などでいくべき場所ですが、走って行くことにより、そこで使う体力や時間によってその遠さや大きさが実感できるはずと思ったのと、現地では車のほうが何かと便利(行くなら、行けるだけいってやろうと思っていた)だろうと考えたのでした。

そこで、20代前半のときの頃によくしたように、まったく計画なしに(行き当たりばったりともいう。要するに細かく計画するのが性に合わない、というか面倒なのです)とにかくまずは仙台を目指そうとだけ決めました。仙台にはずいぶん会ってない叔父叔母といとこがいますし、ぼくの大好きな次ちゃんが住んでいる、彼らに会うというのもとりあえずの目的(すわなち自分への言い訳)になりますし。あと高速料金や体力的なこと(一人旅だし)を考えてると、夜走りするよりは昼のほうがいいだろうと考えたのでした(これが結局正解だった)、

[3/3]

早朝3時過ぎに出発(4時までに高速に入ればETCの深夜割引が適用される<5割引)し、距離的には東京回りのほうが有利なのですが(都市高速をいったん通ることになる)余分に経費がかかるため、当初は名神〜北陸道〜磐越道(大好きな猪苗代を通る!)〜東北道というルートを想定したのですが、結局は磐越道が降雪の為に規制がかかり、これを避けるため、名神〜中央道〜上信越道〜北関東道〜東北道という少し遠回りですが一度も高速降りないルートで行くことにしました。

そんなにスピードは出さないので、のんびり走っていくと、米原過ぎて夜明けが、中央道途中で朝ご飯を食べ、初めて通る上信越道で雪景色にみとれ(面白い山が多いのですねぇ)、群馬〜栃木という一回も足踏み入れたことない土地を通り、東北道に入って宇都宮あたりで昼ご飯を。その後そのまま仙台に16時過ぎに到着することができました。どらぷらなどだと10時間かからないと表示されるのですが、まぁこっちは人間でのんびりなので14時間ぐらいかかっても仕方ないですよねw

面白い山!

面白い山!

とりあえず仙台駅までいって(2006年のMiceteethツアー以来か!?)適当な安宿をとり、いとこに連絡を取ったのですが繋がらなかったので、次ちゃんに「呑みにいこう」と連絡すると二つ返事でOKだったので、待ち合わせ時間まで一休みして出かけました。呑みに行ったのはベースの高瀬さんに紹介してもらったMONDO BONGOというお店で、マスターちゅうさんの趣味もあってか音楽好き人間が集まる謎の店なのでした(だいたい看板出てなくて場所わからない)。しかしこれがとてもいい店で、呑んで食べて楽しい時間を過ごすことができました。お店にくる客くる客みな知り合いになっていくような感じで。いきなり仙台にうれしい立ち寄りスポットが出来ました。でも明日からのこともあるので呑みはほどほどにして、日が変わらないうちに次ちゃんと別れたのでした(いろいろ今後のこと楽しみ)。

次ちゃんと

次ちゃんと

[3/4]

今回の旅は被災地を見て周りたいというのが一番の目的ですが、そればかりだとあまりにもとシリアスな旅になってしまうので(きっと耐えられないと思います)、適当に面白いもの見たり、美味しいものにありついたりしながら北を目指そうと何となく思っていたのでした。なので朝起きてからまず仙台の一番の偉いさんといえばこの人でしょ、という正宗公(違います?)に会いに行き(東北大学ってここにあったんですね。めちゃいいキャンパス!)、そこから15年前くらいにも行った松島へ。そのとき乗らなかった遊覧船にのり(こういうのん好きなのです。観光地に必ずひとつはあるアナログな乗り物。ロープウェイとか。アナウンスが昔のままだったら最高!でも松島のは新しくなってた)、島を見るより海猫の獰猛さにコーフンしてたのでした。

正宗さん

正宗さん

海猫フィーバー

海猫フィーバー

松島を後にしてすすんでいくと、景色は変わり唖然とする光景が目に入り始めました。海岸から奥に向かってすごく広い土地が更地になっていました。がれきが撤去されてしまうと、もともとこういう場所だったように見えてしまったりしますが、田畑の跡があったり、建物の土台部分だけあったりするのを見つけると、ここに町などがあったんだなと分かります。たまたま奥松島あたりで間違って入ってしまったところの道沿いにあった掘ったて小屋のようなお店で昼ご飯を(カキフライが美味しかった)。どうやら津波で流されたけれど再建したそう。でもあるのはこのお店だけで、まわりは更地で、海際に大きな建物が2つ残ってるのみでした。

その後、さらに東松島や石巻あたりにすすんでいくとまた広い更地が。たぶん普通の住宅はほとんどが流されたのだと思いますが、工場や大きな鉄筋の構造物なんかはたまに残っていたりしてその惨めな姿をさらしたままになっていました。少し内陸にいくと住居もたくさん残っているのですが、その合間に壊れた建物がそのまま放置されていたりもします。また、更地になった場所にはどんどん家も建っていっているのですが、草ぼうぼうの更地にぽつぽつと新築の家ばかりが建っているというのは、不思議な光景でした。

遠くに廃墟

遠くに廃墟

きっと小さな街角だったはず

きっと小さな街角だったはず

そしてそのあと女川町へ。ボランティアをやっている土井さんから教えてもらった女川町医療センターに行ってコーヒーを。ここは高台にあって街が一望できるので、女川町が街ごとごっそり流されているのがわかりました。瓦礫はほとんど片付けられていましたが、まだ倒れたままになっているビルが残っていたりも。港湾地区はいち早く修復していっているのか船舶が着けるようになっていました。

そのまま半島をぐるっとまわって北上川河口付近へ。この辺はぜんぶ田畑だったようですが、津波をかぶったためか、農地を掘り返す作業があちこちで行われていました(川の護岸工事かもしれないですが)。それにしてもその土地の膨大な広さといったら。ちなみにこの川の上流15キロぐらいのところで大川小学校の事件があったそうです。

ここからさらに海沿いをまわっていく時間かかるようなので、山を越えて南三陸町へ。そのあたりではJR気仙沼線の線路がバス道になっていました。ここから北上して行ってわかったのですが、気仙沼線は海沿いを走る路線で、入り江を渡る部分(つまり街の部分)にかかる高架がことごとく流されたり寸断されたりしており、高架をつくってから線路敷設して・・とやっていると時間もお金もかかるので地面に線路があった部分は舗装して、高架がなくなった部分は一般道に乗り入れてなどして公共交通としてとにかくはやく復活させようとしているようでした。すごく広い志津川湾の入り江の土地はすべて更地になり、いくつか鉄筋ビルとおぼしきものが残っているぐらいでした。さらに北上した気仙沼の本吉地区(さらにもっと広い)も全部更地に。本当に広い土地(ぱっと見ても甲子園20個分ぐらい?いやもっとありそう)が何もない状態になっていたのでした。

分かりにくいけど、線路がバス道に

分かりにくいけど、線路がバス道に

防波堤もこのありさま

防波堤もこのありさま

建物ぽつり(FBにも載せた写真のもっと引き)

建物ぽつり(FBにも載せた写真のもっと引き)

さらにいくつかの入り江を通りながら気仙沼市街をめざして行ってたのですが、途中で日没に。気づいてなかったのですが、東北の方が関西より東だから日の入りが早いのですよね。気仙沼港についたころにはすっかり夜になってしまいました。暗くて辺りの様子が全然分からないので今日はこの辺までに。またまた高瀬さんに教えてもらったヴァンガードというジャズ喫茶(港すぐそばにある)に行き、美味しいコーヒーとカレー(両方で500円だった)を頂きました。津波でお店はまるごと浸水し、ピアノも被害を被ったそうなのですが、マスターの努力でいまはまた綺麗に戻っています。オーディオ装置もすべて駄目になったそうですが、NPO法人「復興博」という団体の「カフェエイド」という企画により復活したそうです。上品でいい音でした。

気仙沼ヴァンガード

気仙沼ヴァンガード

ヴァンガードに寄贈されたオーディオ

ヴァンガードに寄贈されたオーディオ

そして宿を適当にとり(たぶん石巻から気仙沼や宮古といった復興事業がすすんでる地域では宿がどこもいっぱいに近い状態みたいです)、いろいろ見たものを消化しきれないまま就寝。ちゃんと憶えてないけれどすごく怖い夢をみました。

つづく

 

19年

20140117

1995年の阪神・淡路大震災からもう19年。去年の1/17に「18年か」と思ってからもう一年経った。年を追うごとに月日の流れがはやくなっている。さすがに19年もたてばお昼のNHKの全国ニュースのトップニュースにもならないし、震災時刻の報道もNHKとサンテレビだけになってしまった。それだけ時間が経ったということもある(自分の中でも記憶が薄れつつある部分も多い)。もう大学生ぐらいでも知らない人が多いような災害になってしまった。でもこれは仕方ないこと。

思い出というか憶えていることを少し。あのとき僕は灘区の灘駅前に住んでいた。社会人一年目の終わりの頃だった。3連休の最後の月曜日だった前日に姫路で友人の結婚式があり、終電近くまで呑んで、「このまま会社いったろかな」とか思いつつ帰ってきて結構遅くに床についたのだが、5時46分の少し前に海の方からやってくる大きな地鳴りに起こされて「何やろ?」と思ったとたんにドン!という音と共にあの大きな揺れ。ほんとジェットコースターに乗ったかのような感じというか何がなんだか分からないうちに部屋はめちゃめちゃ。這々の体で玄関から出て、壊れかけたマンションのドアを蹴破って(すいません、ちょっと壊してしまった)出て、少し明るくなってきた空のもとで見た街の惨状。地面が割れてたり、裏の家がぺしゃんこになってたり、遥か西の方から煙が行く筋も立ち上っていたり、初めて見る光景だらけだった。近所のおばちゃんが持ち出したラジオで浜村淳さんが「大阪で大きな地震です」としゃべってるのを聴いてようやく「あ、地震なんや」と分かったほど動転していた。

さすがに会社に行くことができなかったのでその週はおやすみになったのだが、じっとしていても仕方ないので、あちこち歩き回った。ほんと三宮はひどかった。17日はまだフラワーロードの柏井ビルは倒れてなかった。あちこちガス臭かった。長田に一時住んでいて、そのあたりは長屋が多いところだったのだが、そこは延焼は免れたものの全部倒壊して(家って倒壊したらただの瓦礫になってしまうということを初めて知る)ぺしゃんこになり遥か遠くの蓮池中学校が見えてるような有様だった。

春前ぐらいかに母親が神戸にきたときに一緒に電車にのった。そのとき長田も通ったのだが車窓の風景を見て母が「空襲のときとそっくり。よう見やんわ」といって目を逸らして涙ぐんでいたのが忘れられない(母は堺で空襲にあい、その後も米軍機の機銃掃射などにも脅かされたそう。コクピットの米兵が見えるほどだっとか。母の生家には焼夷弾の跡があった、六角形の断面なのですぐわかる)。

今朝も神戸の市民のつどいに歌手の森祐理さんが出演して歌っていた。彼女が震災で亡くした弟の渉くんは僕の大学の軽音の後輩(テナー吹きだった)であり、しかも同じ泉陽高の出身。お葬式で彼女に会ったのを懐かしく思い出す。今年も森さんは美しい声で歌っていた。彼女の上にも僕にももう19年の年月が流れたかと思うとたまらない気持ちになった。

多分いくら若い人たちや子供に震災の話をきかせたり映像を見せたりしても、知識として知ることはできても経験にはならない。いくら怖い話をしたって実感できなくて当然だ。残念ながら経験は体験してこそ得られるもの。だから、たぶん遠くない将来にまた同じような災害が起こりうるということを震災を体験した大人はしっかり肝に据え、そのときによりよい対処ができるよう、せめて今日だけは昔のことをじっくり思い起こすようにするべきだと思う。

当時発行された写真集を眺めながら。
震災で亡くなった方、被災した方々に祈りを。

the longest friday

 

2011.3.11

きっといままでで一番長い金曜日だった。

誰もが忘れ得ない、そんな一日だった。

あれから2年。

それぞれの人にそれぞれの、同じ長さの月日が流れていった。

でも、いまもなお被災地に暮らす人たち、

やむなくそこから離れたひとたち。

僕らとかれらの上に降り積もったものは、どれぐらい差があるだろうか。

差、という言葉で表すべきことではないかもしれないけれど。

 

 

結局何もできなかった。

いや、してこなかった。

僕も含め、そういう思いを持つひとはたくさんいると思う。

時間的なこと、物理的なこと、

その他にも仕方ないことがあって、と、

いいわけしたくなることもあるだろう。

 

でもそれを気に病むことはきっと、ない。

きっと手を差し延べるときがやってくる。

だってあの金曜日は今なお続いているんだから。

 

阪神の震災からも、もう18年。

あの日々は忘れない、忘れられたくない。

何も大きな災害だけじゃない、

遠い国々のことは難しいかもれしれないけれど、

この国で起こった身近なことなら、

きっとそのこと、その渦中にあった/ある人たちのことを想うことはできる。

一番さみしいのは、忘れられること。

 

 

だから黙って今日は心を差し延べる。

言葉にするとうまく伝わらないように感じるから。

思い出す。考える。想像してみる。

ちいさなことだけれど、とても大切なことだと思いませんか?

2013.3.11

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