歯科医の妹・桃とフリーの作家のような仕事をしている姉・陽。最近ずいぶん年下の男の子・鯖崎と付き合うようになった桃はそれまでのいい恋人・石羽と別れてしまう。桃と高校時代から仲のいいヒビキこと響子、4人の子供を抱えて主婦業が忙しい。その姉妹を見守るがどこかまた違う種の女性である母・由紀、そしておおらかな夫・詠介。最近亡くなった響子の母・和枝とその恋人だった山口。。。。。
などなど、主に桃と鯖崎と中心として家族や友人、元カレや恋人やらの人間模様が淡々と描かれる。十一月に始まって、二月、五月、八月、九月、十一月、二月と一年少しあまり。断片的なシーンごとだけれど、そのなかから彼らの人間像が、関係が、息遣いが感じ取られていく。
しかしこの江國さんの文章の不思議さ。決して力強く主張してくるわけではないのに、どこか心の奥までしみこんでくる。そして解説で山本容子さんが書いているように、ひとりきりで誰にもじゃまされずにゆっくりよみたくなる。そして一ページ目を開いた時から、描ききらない描写というか、行間の大阪にその文章から目が離せなくなり、すっかり物語の住人(傍観者としてだけど)になってしまう。山本さんは「物語にとりこまれる」と書いてるけど、全くその通りだと思う。そして文章から江國さんの息遣いが聞こえて来るような気さえしてしまう。
彼女の文章を読んでいると、どこか絶対的な孤独であったり、逃れられないけれどゆるやかでいつまでたってもやってこない破滅とか、ハレの陰によりそうケのような、そういった存在を強く意識させられる。人生という時間のなかの表面的な上げ下げではなくて、ずっと静かに寄り添って横たわっている何か。運命というとロマンチックすぎるし、宿命というほど厳しくない。でも、確実に抱いているもの。それが人生に陰をおとし、立体的にしてくれているというような。
ぼくは読み取れなかったけれど、山本さんの指摘で気づいたけど、各章(二月とかね)それぞれに人物たちのシーンが描かれているけど、それが韻を踏んだようにも書かれている。静かなママのシーンの次に賑やかな母親が登場し、白いご飯を食べ終えたあとに白いスタジオが始まり、、、とまるで映像のような、文章の韻のような。そんな遊び心というか、細やかさも江國さんらしいというか。
ふわっとしてるけど、確実に自分が過去にこういう人たちにあったことがあるような錯覚を覚えるほど、濃く人間とその時間が描かれた作品だった。
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